天候は雲っていてあまりよいとは言えず、早めに引き揚げることで意見が一致してバスで駅へ戻り、電車で帰途に着いた。今回のコースは、まっぷ案内通りに壺阪山駅からバスで壺阪寺に出て、そこから歩く方が、高取城址に行くには楽だったようだ。そういう人たちの方が多かったのだ。
 食事後は壺阪寺に行くのだが、戻る道を間違えて来た道を余計に戻ってしまった。どうもおかしいと気づいてまた上がることになるが、途中でアクシデントに遭う。急いで引き返すために坂道を上ったので、足が攣ってしまいひきづる。ガマンできなくてしばらく休ませてもらう。でも、数分の休止で上手くひいてくれて、その後はボチボチ歩いて大事にならずに足は完全に元気になった。

 三叉路に戻って、本来の道を下る、これからは下り坂が主なので転ばない様に気を付けないといけない。カメラをぶら下げているので転べば壊してしまう恐れがあるのだ。一応は脇の下にして動かないようにしているのだが、石ころ道やぬかるみですべりそうな箇所も多くて、足元には細心の注意である。

 何とか下って八幡口の看板で、車道を横切り壺阪寺の近くになって、五百羅漢の標識があり、また山道に入るが折角なのでここを回って降りることにする。数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があり、像高約50㎝ほどの像が所狭しと並んでいる。十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られている。それらは、こけしのようにすべて同じ顔、姿に見えるが、よく見ると一体ずつ姿態・表情は違い個性が感じられる。

 香高山の全山にわたって岩肌に様々な仏像が彫られていて、興味が尽きない磨崖仏群である。五百羅漢岩の前の石灯籠には慶長十(1607)年とあり、香高山五百羅漢はこの慶長年間の作であると思われる。という。写真を撮っていても石仏は多いし、帰るバスの時間も気になって早々に帰る道にでる。

 やがて壺阪寺の姿が見えてくる、ここは今回の目的に入れていないので内部に入るのは諦めて、外から少し看乍らバスを待つ、この時期バスは少なく、これを外すと1時間以上待たねばならない。壺阪山駅まで歩くことも手段だが、4KM弱ほどあり1時間は必要になる。
 本丸跡は結構広くなっていて、周囲の眺めを見る事もできる。既に賑やかになっているグループもあちこちにいて、我々もここで弁当になる。本丸は、1基の天守と1基の小天守、3基の櫓が多門櫓で連結された連立式天守の縄張りで、この5基の櫓で囲まれた本丸部分には、「本丸大広間」という場所に礎石が数カ所あり1棟の御殿があったと考えられる。という。

 紅葉としての時期はやや遅かったが、それでも落ち葉はきれいだし、木々は鮮やかな色を残している。写真に撮るとその一部分になるので、見た目の迫力は伝えられないのが残念だ。いつも後で写真を見て思うことだ。
 




 
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 本丸の説明看板、びっしり記載がある
 

  小休止の後は、いよいよ本格的な山道で七曲りとかの坂を階段上の場所、石ころだらけで足元も歩きにくい場所などを通過するのだ。やや息切れもしてくるが、山ガールのオバちゃんも元気な人は早いもので、さっさと追い抜かれる。が、通常はこちらがおばちゃんを抜くことが多いが。

 高取城址の石碑、猿石を過ぎて更にいくつもの門の跡があり、もう一々確認もできない。そして国見櫓跡の案内があるので少しまた横道に入る。この道は案内図にはないので後で名前も判らない。中々の見晴で気分も爽快になるか。       

 そして三の丸跡まできた。三叉路になっている。実はこの場所から帰りは、壺阪寺へ向かう道になるのだが、標識はそのような記載がなくて八幡口とあったので、通り過ぎてしまって相当に下って気づき、またここまで引き返すと言うミスをしたのだ。  

 紅葉が目立つ場所になり、カメラを構える人が多くいる。カメラ愛好家グループで撮影会にきているような人たちも幾組もいる。あまり来たことないのでよく知らなかったのだが、高取城址は紅葉の名所になっているのだ。高取城(たかとりじょう)は、別名、高取山城。標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓などが29棟も並んでいたという。国の史跡に指定されている。   

 曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。スケールの大きさに驚くばかりだが残っていないのは残念だ。もっとも維持管理が大変でとても守り切れなかったとも言える。

 明治2年(1869)の版籍奉還があり明治6年(1873年)廃城となった。明治20年(1887)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたが、人里離れた山頂であるため管理されずに自然倒壊。一方でで、遺構は人為的に崩壊することなくほぼ完全な状態をとどめている。

高取城址から壺阪へ                (下)