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  3.南禅寺

 南禅寺は広い境内である。何回か訪れているが境内を散策するのみで本坊を見学するのは初めてである。今回は庭園見が目的であるからからこそ入れるとも言える。

 ここは臨済宗南禅寺派大本山の寺院で山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。一般に禅宗という呼びかたは、坐禅を生命とする宗派の意味であり、臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗がある。 臨済宗・黄檗宗には15の本山があり、南禅寺はそのうちの一つで、南禅寺派の総本山になる。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつらしい。

 南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじでん)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院はその後身である。創建当時の伽藍は数度の火災で残存せず、現在のものは桃山時代以降の再興となる。

 本坊に行く参道で三門がある。寺院を代表する正門で禅宗七堂伽藍(勅使門、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経堂、浴室)の一つ。山門とも書き、仏道修行のさとりの内容を示す空門、無相門、無作門をも意味している。南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つよ言われる。現在の三門は藤堂高虎が寛永5年(1628)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒 的な量感と列柱群が力強さを示している。歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名です。ここも拝観できるが、今回は素通りだ。

 南禅寺の方丈は大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。

 大方丈には狩野派の絵師による障壁画があり、柳の間・麝香の間・御昼の間・花鳥の間(西の間)・鶴の間・鳴滝の間の各間にある襖や壁貼付など計120面が重要文化財に指定されている。大方丈の前面は、俗に小堀遠州の作と伝えられる江戸時代初期の代表的枯山水庭園がある。南部から西部にかけて5本の定規線を配した薄青色の筋塀(築地塀)をめぐらし、東西に細長い地形に作庭されている。石組はこの筋塀に添って配置されており、大きな石組を方丈側から見て左奥に配し、前方と右手には、白砂の広い空間を残している。

 白砂に6つの石を組んだ姿から「虎の子渡し」と呼ばれる。石を親虎と子虎に見立て、白砂で川・水をイメージさせる。虎の親子が川を渡っていく様子をあらわしている。国の名勝に指定されている。小方丈は大方丈に接続された後方の建物で、部屋の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている

 小方丈庭園は別名「如心庭」と呼ばれる。昭和41年に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて作庭された。その名のごとく、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園となっている

 六道庭は、方丈庭園の裏側にある。「如心庭」が解脱した心の庭であるのに対し、この「六道庭」は六道輪廻の戒めの庭。六道輪廻とは、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観のこと。
一面の杉苔の中に配石された景石を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃の境地に達することなく六道を輪廻する我々凡夫のはかなさを想わずにはいられません。

 その他、龍吟庭、華厳庭、鳴滝庭、還源庭など、本坊の他の部屋に渡る廊下沿いにある。資料には記載されていないので、比較的に新しく作られた、あるいは手直しされた庭であろう。

 南禅寺境内の赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋が、南禅寺の古めかしさになじんでいい景色を湛えている。ここに来たときには必ず見るところである。観光客が立ち寄る場所でもある。

 橋は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた疏水の水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1881年に始まり、1890年に竣工した。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,潅漑用水,防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され,91年には送電を開始した。また水力発電の増強と水道用水確保のため,1908年に第2疎水の工事が、始まり、1812年に完成している。同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。

  雲っていて雨になりそうな気配の中を地下鉄駅まで歩き解散、この後は有志で京都駅近くで懇親になる。運動した後の一杯が楽しみで参加しているとも言えるのだ。
 2.金地院

 南禅寺の塔頭である金地院(こんちいん)はに寄る応永年間(1394~1427)足利義持の帰依を得て北区・鷹ヶ峰に創建された禅寺で、慶長10年(1605)に第三世以心崇伝(いしんすうでん)長老が南禅寺塔頭に移建し現在に至っている。
 
 崇伝長老は、徳川家康に仕え幕議に参画、行政を左右したことをはじめ、自ら天下僧録司(そうろくし)となって、宗教界の人事も左右した才覚で、「黒衣の宰相」とも呼ばれ、畏怖尊敬を集めた名僧である。家康の死後、境内に東照宮を建立するなど、徳川家康への忠誠心の一端が現わされている寺院である。また、崇伝長老は、南禅寺の伽藍造営に尽力するなど、後水尾天皇から「円照本光国師」の号を賜っている。寛永3年(1626)小堀遠州作の協力を得、大規模に再建した。特別名勝となっている鶴亀の庭園である。

 東照宮は、崇伝長老が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628)造営した。創建当初は日光東照宮と比すべきものであったというが、現存するのは拝殿・石の間・本殿などで、京都隋一と言われる権現造り。黒漆塗りだったが色は落ちて古さを感じる。重要文化財になっている。

 東照宮から開山堂を回って方丈にでる。慶長16年(1611年)に崇伝が伏見桃山城の一部を徳川家光から賜り、移築したものという。内部は狩野探幽・狩野尚信の襖絵で飾られている。 方丈から東照宮が眺められるように造られたが、現在は茂みで見ることはできない。重要文化財である。

 方丈前の庭園が見学目的の鶴亀の庭園である。崇伝長老が徳川家光のために造った庭で、桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水。前面の白砂は海洋を表し、背景の右が鶴島で左が亀島。両島の中央に遥拝石が敷かれているが、背後の東照宮を礼拝するためのものという。

 写真では全体を捉えられないので、この説明では判らないですね。
実際に見に行くしかない?


 

 
 








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