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京都の日本庭園巡り3回目は、小堀遠州の庭を3ケ所見ることになった。
小堀遠州は戦国時代の末期に生まれ、浅井・豊臣・徳川の時代に主君が移り変わる乱世で生き抜いた。徳川家の 茶道指南役となり、また伏見奉行を務めて築城・建築・造園の作事奉行としての力量を発揮しているという。京都に
は、金地院「鶴亀の庭」、南禅寺方丈「虎の子渡しの庭」などが残っているので、これらを中心に散策した。
小堀 遠州は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主で本名は小堀正一。慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれる。生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、延べ人数は2000人に及ぶ。書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた。
遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも才能を発揮した。大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などは、代表的な庭園である。美術工芸においては、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも足跡を残している。
また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注いだ。
豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえる。
1.二条城
JR二条駅に集合し、ここから二条城へ行く。正式には、元離宮二条城になる。天皇家が住まいし後に京都市に下賜されたことから、元離宮というらしい。1994年には世界遺産に登録された。まずは東大手門から入場して、唐門を通って最初の見学は二の丸御殿です。桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて遠侍(
とおさむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟が東西から南北にかけて雁が飛んでいるようにかぎ型で並んでいます。
建物面積3,300平方メートル、部屋数33、畳は800畳もあるという。
二の丸御殿入り口は豪華に装飾された車寄せのあるところです。ここの欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており、表側には五羽の鸞鳥(らんちょう)・松・ボタン、上部には雲、下部には笹と思えます。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)に
なっており、床は牛車で中に入れるようになっている。
次に二の丸庭園を見学する。この日も、多勢の観光客がきていたが、ほとんどは二の丸御殿見学で庭園はさっと通り過ぎていく、暑い中なのでなおさら足を留める人も少ないかも。二の丸庭園の作庭の年代については、慶長7年(1602)頃の家康時代に二条城が造営されたときにできたと言うが
、寛永3年(1626)の家光時代に御水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられている。書院造庭園であ る二の丸庭園は神泉蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また八陣の庭とも呼ばれている。
当時の姿は、新たに増築された行幸御殿、中宮御殿、長局等に取り囲まれた中庭的な庭園としてつくられ、池の中に御亭を建て、池の中央に2つの島、4つの橋を
併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座) 、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されている。特に、大広間からは庭園ごしに今はない天守閣が一部望めたものと思われる。
時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し、荒廃していた。大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用される。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な
改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられる。京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、昭和14 年(1939)名勝に指定、昭和28年(1953)に
国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光名所の一つとなっている。
次に本丸御殿に移動します。本丸には五層の天守閣がそびえていましたが、寛延3年(1750年)落雷のため焼失、現在は、天守台のみが残る。 この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、大和郡山城天守の移築説がある。記
録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された。
これに代わり、新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城の天守が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉と小天守
が付属する複合式の層塔型5重5階の天守であった。1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかった。
本丸は内堀に囲まれた部分16,800平方メートル(約5,200坪)ある。創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていた。 また、本丸には五層の天守閣がそびえていたが、寛延3年(1750年)落雷のため焼失、さらに天明8年(1788年)には市中の大火のため殿舎をも焼失した。
現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したものです。旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月にわたって住まわれた建物で、1854年(嘉永7年)内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇
居に使用された由緒深い建物。 現在は公開されておらず中を見ることはできない。
本丸から西橋を渡って右回りに行くと清流園がある。ここは二の丸の北大手門付近に1965年(昭和40年)に作られた 。和洋折衷庭園。近代日本庭園の先駆者とされる小川治兵衛(1860~1933年)が、現形の元となる作庭を手がけた。 芝生を敷き詰めた洋風庭園の東側と、2棟の建物を含めた和風庭園(池泉回遊式山水園)の西側からなる。江戸時代の豪商・角倉了以の屋敷からその一部や庭石約800個を譲り受け、加えて銘石300個も全国から集めてつくられた。市民の茶会や国賓の接遇に利用される茶室・和楽庵からは、東に池泉の庭や旧角倉了以の屋敷から移築した香雲亭を鑑賞できるが、特別公開期間中以外は外から眺められるだけ。
清流園自体は、日本庭園としてまとまっていて州浜や中島などがとても綺麗。二の丸庭園と同じく多くの岩石が配されていて、優雅で落ち着いた雰囲気があります。二の丸庭園が力強く男性的なのに対し、柔和で女性的な感じとも言われる。この日は池の水を抜いて掃除中で全体の雰囲気は掴めなかった。
二条城で昼食を含めてたっぷり3時間かかった。売店付の大きい休憩所があり、ここで食事もできるようになっている。但し、アルコール類は販売されていない。持ち込みで密かに飲んでいる観光客もいるが。