市立図書館はこの日は休館日で残念ながら拝観できす、道明寺天満宮境内にある「実験考古学の試みとして製作された復元修羅」を見る。ここには小さい修羅で約2.8メートルのものだ。道真公の先祖土師氏の領地であり、この修羅を使った土木技術も土師一族のものであったろうと思われる縁からここに置かれたようだ。
修羅(しゅら)は、重い石材などを運搬するために用いられた木製の大型橇である。重機の存在しなかった時代に重いものを運ぶ重要な手段であった。コロなどの上に乗せることで、摩擦抵抗を減らすことができる。先端部を舟の舳先のように前方へ向け、これに切り出した石を乗せ、ロープで曳く。ソリとも呼ぶようだ。
修羅の由来は大石をタイシャクと読み、それを帝釈天に引っ掛け、帝釈天を動かせるものは阿修羅すなわち修羅であると語呂合わせからきたものとされている。(いつごろだれが?)
古墳時代には古墳の造営に使用されていたと考えられ、1978年に仲津山古墳の南の三ツ塚古墳の周濠から、大小2つの修羅が出土した。大きい修羅(全長8.8m、幅1.9m、重さ3.2トン)はアカガシ類の木、小さい修羅(全長2.8m、幅0.7m)はクヌギ類の木でできており、いずれも二股に分かれた一木であることがわかった。これらと同時に梃子棒(長さ6.2m、直径20cm)も発見された。出土場所などから、古市古墳群の最盛期だった5世紀ごろのものと推定されている。現在、大きい修羅と梃子棒は大阪府立近つ飛鳥博物館で展示され、府から貸与された小さい修羅が市立図書館で展示されている。平成18年に大小の修羅とてこ棒が重要文化財に指定された。
E 志貴県主神社(しきあがたぬしじんじゃ)
志貴県主神社は、藤井寺市にある式内社、河内国総社で、旧社格は村社。神武天皇の長子である神八井耳命を主祭神とし、天照大神・春日大神・住吉三柱神・神功皇后など10神を祀る。
奈良時代、この一帯は「志貴(磯城)の県」という朝廷の直轄地で、それを管理していたのは神八井耳命を祖とする志貴県主(しきのあがたぬし)と、その同族の志貴首(しきのおびと)であった。創建の由緒は不詳であるが、その氏神として創建されたものとみられ、『河内誌』に「国府属邑一」とあることから、この地に河内国府が設置されたときに創建されたものと考えられている。河内国の総社とされ、延喜式神名帳では大社に列している。
中世には、楠木正成が祈願所としてに隆昌を極めたが、楠木氏の衰亡とともに衰退し、さらに戦国時代にはたびたび兵火にかかり、何度か遷座を余儀なくされた。
F 国府(こう)遺跡
この地は国指定史跡に指定されているというが、何もない石柱がポツンと広くない空間にたっているのみであった。現在までの調査では、約2万年前の旧石器時代から、縄文、弥生、古墳と、各時代の人々が生活したと思われる跡が発見されており、縄文・弥生時代の90体以上の人骨や旧石器時代のナイフ形石器が出土した。
ここ河内国の国府は志紀郡にあった。古代の志紀郡に属する藤井寺市の允恭天皇陵の東側に国府という地名があり、その北側に惣社という地名と、神社が現存する。 河内国府も、おそらくこの地に置かれたであろうことは、ゆかりの地名が残っていることによって、推定されているが、まだ国府に関係した遺構、遺跡は発掘されていない。
C 古室山古墳(こむろやまこふん)
昼食場所は古室山古墳の前の空き地になりました。天気はいいので草の上にシートを敷いて、皆さん思い思いの形で雑談しながらので食事です。アルコールがないのが寂しいです。
古室山古墳は、前方後円墳で向かいにある仲津山古墳とほぼ同時期の、5世紀前半の築造と考えられる。全長約150メートル、後円部径約96メートル、高さ約15.3メートル、前方部幅約100メートル、高さ約9.3メートル。墳丘は三段築成で、葺石が確認される。現在、くびれ部の東側のみに造り出しが残り、周囲に周濠と堤をめぐらしている。
昭和31年(1956)に単独の古墳として国の史跡に指定され、2001年1月には近隣の他の古墳とともに国の史跡「古市古墳群」として、あらためて指定された。墳丘の一部には住宅が建っているが、藤井寺市による公有地化が進められている。また、宮内庁の管理地でないため、墳丘内には自由に立ち入ることができる。
D 允恭天皇陵 (いんぎょうてんのうりょう)
允恭天皇陵は、 市野山古墳と言われる前方後円墳。墳丘長は227メートルで全国20位。前方部の高さ23.3メートル、後円部の高さ22.3メートル。とも。陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)。宮内庁によって第19代允恭天皇の陵墓に比定されている。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。近くに国府八幡神社、唐櫃山古墳、長持山古墳、衣縫塚古墳などがある。その整美な外観は古墳時代中期の代表的な墳形といわれる。前方部を北に向け、墳丘は三段築成で、くびれ部両側に造出しを備えて、周囲には幅25〜30mの内濠と外堤、さらにその外側に溝をめぐらせている。
住宅地に開発されて、入り口が横からしか入れない形になってしまっている。心無い業者によって景観が台無しだが、民有地になっているので規制もできなくなかったのか。まだ新しいので最近のことらしい。残念なことだ。これ以上の開発が進まないように行政がしっかりしてほしいものだ。
G 道明寺
大阪府藤井寺市にある真言宗御室派の尼寺で山号は蓮土山。道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。東西320m、南北640mの広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍のある大規模なものである。
延喜元年(901)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
天正3年(1975)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によって復興成り朱印地に認められる。明治5年(1872)の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。菅原道真が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を御本尊とする。
金堂は修復中で木組みがあって景観はよくなかったのが残念である。
H 道明寺天満宮
藤井寺市道明寺に位置する神社である。祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。 現在の御本殿は本殿・幣殿・拝殿の構造からなる権現造りで、江戸時代初期の建立で、中ごろに移築されているのではないかと推定されている。屋根は檜皮葺きで桃山時代の部分も残っている。
この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。
平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
後に、道真自刻と伝える十一面観音像を祀り、土師寺を道明寺に改称した。天暦元年(947)のことという。 道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようになった。明治の神仏分離の際、道明寺天満宮と道明寺を分け、道明寺は道を隔てた隣の敷地に移転した。
現在も学問の神として人々に親しまれている。また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られている。
京都の北野天満宮も梅の名所であるが、ここは知らなかった。来年、覚えておれば梅の時期に再訪したいところだ。