大阪古市古墳群は、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、古墳総面積世界一の誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成されている。

 いずれも標高24メートル以上の台地や丘陵上にある。北部の誉田山古墳(伝応神陵)・仲津山古墳(伝仲津姫陵)・市ノ山古墳(伝允恭陵)・岡ミサンザイ古墳(伝仲哀陵)などの古い古墳群と、南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい一群とに分けられる。古墳造営には豪族の土師氏などが関与していたと考えられている。

 今回は、北部の古墳群と近辺の神社・遺跡を訪れる機会があったので記事にした。訪問先は下記の図のやや見にくいが赤丸印の場所を順に歩いた。@誉田八幡宮、A応神天天皇陵、B仲津媛命陵、C古室山古墳、D允恭天皇陵、E志貴県主神社、F国府遺跡、G道明寺、H道明寺天満宮、の各地である。
     
 

A 応神天天皇陵(誉田山古墳)   下写真 左

  
 誉田山古墳 は、羽曳野市にある5世紀初頭の築造と考えられる古市古墳群の中心となる古墳。420メートルの墳丘の長さは、百舌鳥古墳群の仁徳陵(大仙陵古墳)に次ぐ全国第2位の巨大前方後円墳。 体積では143万立方メートルと日本一で、後円部の直径267メートル、高さ36メートル、前方部の端での幅330メートル、高さ35メートルとそれぞれ大仙陵古墳を上回る。

 周りには二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48メートルの中提があり、その外に築造当時は幅約35メートルのもう一重の濠(外濠)のあった形跡があり、それを巡る外提は幅約15メートルあったと推定されている。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけであり、東側の外濠や外堤は築造されなかったことが明らかになっている。

 現在、宮内庁によって応神天皇の陵墓に治定されており、内濠と内堤より内側のみを宮内庁が管理している。外濠と外堤は民有の農地となっていたが、大古墳の一部ととして、昭和53年(1978)に外濠、外堤のみを独立して史跡に指定された。 陵号は恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)。一般的には応神天皇陵と呼ばれている。

B 仲津媛命陵(仲津山古墳)   下写真 右

 仲津山古墳は、藤井寺市にある5世紀前半の築造と推定の前方後円墳。応神陵と市域は異なるが近い。現在、宮内庁によって、仲津媛(応神天皇の皇后)の陵墓に治定されている。

 全長約290メートル、後円部径約170メートル、高さ約26.2メートル、前方部幅約193メートル、高さ23.2メートルで、古市古墳群で2番目、全国でも10番目の大きさを誇る。墳丘は三段築成で、葺石と埴輪が確認される。くびれ部の両側には造り出しがある。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。
不明点が多いが、石棺が存在することや勾玉が出土したことが伝えられている。

* 古墳は写真で撮っても、大きさに違いがあるのみでどこでもおおよその姿は似ているし、あまりいい画にはならないので、写真はあまり残っていない。
@ 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)

  まず最初の訪問は誉田八幡宮である。大阪府羽曳野市にある神社で、主祭神は応神天皇で、応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。社伝では、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051)、元の鎮座地から1丁(約100m)ほど南の現在地に遷座した。

 八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。

 その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。また神宮寺として長野山護国寺があったが、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。

4.旧木下家住宅

もとは又野良助氏の住宅として昭和16年(1941)に竣工し、その後、昭和27年に木下家の所有となった。現在は、遺族から寄贈を受けて平成13年に国の登録有形文化財に指定されている。
戦前期の日本の和風住宅を発展させていったもので、日本人の生活様式を作り上げてきた過程を良く残している。
ボランティアガイドのおばちゃんに、丁寧に案内していただいた。
古市古墳群散策     (上)