「血縁淘汰」は「遺伝子淘汰」である
生物には一般にその血縁者を保護する傾向が存在するのである。このもっともポピュラーな例として、親がその子を他の生物の攻撃から守ることがあげられる。このような行為は、明らかに個体の利益に反しており、したがってこのことから自然淘汰の単位が「個体」ではないことが推測できるのである。
ところで、血縁者は「自分と共通の遺伝子を持っている者」と定義されている。したがって、生物がその血縁者を保護する理由は遺伝子がわれわれ生物を操っているためであると推測でき、実際その通りになっているのである。したがって、以上のことから自然淘汰の単位は「遺伝子」なのである。また、生物の進化においてもこの「遺伝子」こそが主役となっているのである。
ところで、2章でも述べたとおり有性生殖をする生物ではその親や子は全遺伝子の1/2が共通となる。したがって、片方の親だけが共通の兄弟は平均すると全遺伝子の1/4が共通であることになる。また、同じ考えから両方の親が共通の兄弟は全遺伝子の1/2が共通となるのである。このように、一般に親等(2つの個体の間の遺伝的距離を表す単位、親子は1親等、兄弟は2親等となる)が1つ増えるとそれに対応する類縁係数(2つの個体に共通している遺伝子の全遺伝子にしめる比率)が1/2倍となるのである。
したがって、自分を犠牲にすればその子が3個体以上救える場合には自分を犠牲にしてその子を助けると予測でき、実際生物はその通りの行動をするのである。この例が先に述べた親がその子を他の生物の攻撃から守る行為である。
このように、血縁者を助ける性質のある生物が自然淘汰によって生き残る傾向があることを「血縁淘汰」と呼ぶのである。なお、一般にはこの「血縁淘汰」は「群淘汰」の一種であると考えられている。しかし、「血縁淘汰」には他の「群淘汰」にはない性質が存在しているのである。この「血縁淘汰」独自の性質とは、言うまでもなく群内のメンバーを同等に扱わず、そのメンバー中の類縁係数の大きい個体ほど優遇するということである。したがって、この「血縁淘汰」は「遺伝子」をその対象とした自然淘汰、すなわち「遺伝子淘汰」なのである。
真に「利己的」なもの⇔遺伝子
以上のことから、この生物界でほとんど唯一「利己的」と呼べるものは「個体」でも「種」でもなく「遺伝子」に他ならないと結論できるのである。この理由は、もちろん遺伝子が一種の「自己複製子」だからである。つまり遺伝子は自己の生存に有利になるように個体を操作するのである。ここでは生物が「遺伝子」のみならず「魂」の産物でもあることは忘れてもらいたい。なぜなら、個体はその子をつくることはできるけれども決してその個体と同じものはつくれないからである。したがって、個体は決して「自己複製子」ではないのである。また、絶対に自分と同じ個体は存在せず、このことが一般に個体を「固有名詞」と見なす理由である。
ところで、1章でも述べたとおり「自己複製子」なるものには「遺伝子」以外にも存在しているのである。このもう1つの「自己複製子」が「ミーム」(文化的遺伝を担っていると考えられているもの)である。
そして、やはりこの「ミーム」も自己複製子である以上利己的にふるまうのである。その例として、子供をつくらないようにしむける「ミーム」の存在があげられる。そして、子供をつくらないことはその個体にとって経済的に有利なのでこのミームはわれわれ文化的生物(主にその頭脳)からの支持を受けやすく、したがってこの子供をつくらないようにしむける「ミーム」は文化的生物の頭脳をその媒体として増殖する傾向がきわめて強いのである。
この場合、この「ミーム」の利害がその宿主である生物の遺伝子の利害と真っ向から対立していることに注目してほしい。つまり、子供をつくらないようにしむける「ミーム」が増えることはすなわち遺伝子にとっては絶滅を意味するからである。そして、この「ミーム」にとっても自らの繁殖はその宿主である生物を絶滅へと導き、したがってこの「ミーム」の過度な増殖は自身にとっても絶滅を意味するのである。
このように、自然淘汰は生物界全体の利益に対してはほとんど注意を払わない傾向があるのである(この理由についてはすぐ後で詳しく述べる)。この場合、たとえ自己の利益であってもそれが遠い将来の自己の利益である場合には自然淘汰はやはり注意を払わないのである。したがって、自然淘汰説(「個体淘汰」、「群淘汰」、「血縁淘汰」などどんな自然淘汰でも同じ)では将来の自分は「自」ではなく「他」と見なしたほうがはりかに適切である。したがって、生物が己の将来のことを考えて行動することは実はきわめて「利他的」な行動なのである。
なお、遺伝子の目的はその数を増やすことではなく全滅を免れること、すなわち少しでも長く存在しつづけることである。したがって、遺伝子がその宿主である個体を生殖するようにしむける理由は遺伝子の総数を増やすためではなくその全滅を免れるためである。したがって、遺伝子が存在し続けるにはその総数をなるべく一定にする必要があり、そのためには遺伝子は生物をその死亡者数に合わせて生殖させる必要があるのである。以上のことが、生物は必ず「多産多死」または「少産少死」のどちらかになる理由である。
「個体」は「脇役」にすぎない
ところで、先述のとおり「自然淘汰」やその結果として起こる「進化」は「遺伝子」がその主役であるにもかかわらず、実際に起こった進化では個体のみにとって有利な形質の進化がその大部分を占めているのである。この理由は、先述のとおり比較的近い血縁者でもその類縁係数は0に近いからである。たとえば、最も近い血縁者である親子でもその類縁係数は高々1/2にすぎぬのである。
したがって、いくら「血縁淘汰」が「群淘汰」の一種であると言ってもその実体はほとんど「個体淘汰」なのである。したがって、現実の自然淘汰を見るとあたかも「個体」が自然淘汰の対象になっているがごとく見え、それがゆえに自然淘汰の対象が「遺伝子」であることに気付かないのである。
これらのことが、自然淘汰が「種」など大きな集団の利益に対してほとんど注意を払わぬ理由である。また、「性善説」の旗色がきわめて悪いのもまったく同じ理由である。つまり、先述のとおり「善」とは他の生物に対して「よい」という意味であるが、この「他の生物」の中にほとんど血縁者が存在しない以上「善」なる行動が進化しようがないのである。
しかし、だからと言って自然淘汰が種の利益に対してまったく注意を払わぬわけではない。なぜなら、御存知のとおり「種」とは血縁者の集まりであり、したがって自然淘汰が血縁者の利益に注意を払う以上多少種の利益にも注意を払うはずだからである。この実例をあげると、先述のとおり地球上の生物には雌をめぐる雄同士の争い(雄間競争)が著しく進化したものが多いが、一方ではこの「雄間競争」がゆえに絶滅した生物も少なからず存在するのである。さらに言うと地球上の生物自体がこの「雄間競争」を防止できない生殖システム、すなわち「雌雄異体」のために絶滅しかねないのである。
このように、「血縁淘汰」なるものは古くから論議されている「性善説」、「性悪説」どちらの学説も矛盾なく説明できる、まさに「万能の切り札」なのである。この理由は、言うまでもなく「血縁淘汰」とは遺伝子をその対象とした自然淘汰のことであり、したがってこの「遺伝子」の利害が個体、種どちらの利害とも密接に関わっているのでこの「血縁淘汰」は「個体淘汰」、「種淘汰」(ついでに言うと、この「種淘汰」は「血縁淘汰」の一種であり、さらに先述のとおり「血縁淘汰」は「群淘汰」の一種である。)どちらの自然淘汰もうまく説明できるのである。