「良」と「善」の相異
「良」、「善」なる漢字は両方とも日本語でいう「よい」を意味するが、実はこの2つの字の意味は互いにかなり異なっているのである。つまり、「良」(「優」も同じ)は単にその性質が優れていることを表すが、一方「善」は他の者に対してその性質が優れていることを表すのである。言いかえると、「善」と「良」の意味の違いはここに「公共性」なる概念がふくまれているかどうかの違いなのである。
したがって、つまり「良」(「優」も同じ)は「利己的」、「善」は「利他的」という意味である。言いかえると、「良」は私的に「よい」こと、一方「善」は公的に「よい」ことを指すのである。したがって、「性善説」とはできる限り生物は利他的に行動するという学説、一方「性悪説」はよほどのことがない限り生物は利他的に行動しないという学説なのである。
ところで、4章でも述べたとおり自然淘汰のしくみは「優勝劣敗」(優れた者が生き残り劣った者が滅びる)であるが、この「自然淘汰」は個体など小さな単位に対しては起こりやすいが、生物界全体など大きな集団に対してはきわめて起こりにくいのである(この事実についてはすぐ後で詳しく述べる)。したがって、「善」の進化には長い時間を要すると予想され、実際地球上に発生した生物では実現しなかったものもたくさん存在するのである。
この例として、先述のとおり地球上には「雄間競争」が著しく進化した生物が多いが、実はこの「雄間競争」を起こりにくくする方法はちゃんと存在しているのである。この方法の一つが「無性生殖」(配偶子を用いずに生殖する生殖方式。「有性生殖」に対していう。)であり、もう一つが「雌雄同体」(同一の個体が2種類の配偶子をつくることができる生殖方式。「有性生殖」の一種であり、「雌雄異体」に対していう。)である。このうち特に「雌雄同体」については、有性生殖のデメリットを最小限に抑え、かつそのメリットを最大限に発揮できる非常に優れた生殖方法なのである(この「雌雄同体」については後で詳しく述べる)。
そして、この地球上に「雌雄同体」なる生殖方式を採用した生物が(動物では)ごく少数しか存在しない理由は、地球上の生物の進化の初期に「有性生殖」なる方法で生殖する生物が現れたが、このときの生物がたまたま「雌雄異体」を採用していたからである。このように、生物の進化は「適者生存」を基本原理とする自然淘汰の賜物なのであるが、この「自然淘汰」が働くには地球上にはじめて生物が誕生してから現在までの30億年という時間では不充分である。したがって、われわれ生物の進化はそのすべてが「必然」によるものではなく、「偶然」によるものも少なからず存在しているのである。
「公私」、「自他」はいずれも相対的である
ところで、「公私」、「自他」などはいずれも相対的な概念なのである。すなわち、「個体」など小さな単位について考えるときには「他」や「公」となるものが「種」など大きな単位となると「自」や「私」となるケースがきわめて多いのである。なぜなら、「自」や「私」はそのメンバーに属している者を指し、したがって当然のことながらメンバーが大きくなるほどそのメンバーに属している者も多くなるからである。
したがって、「個体」のレベルでは「利他的」に見える行動が「種」のレベルでは「利己的」な行動となるケースが少なからず見られるのである。このケースが、言うまでもなく親が自分の子を育てるという行為である。そして、この行為は次に述べる「血縁淘汰」によってはじめて説明できるのである。
このように、「自」と「他」、「私」と「公」などの概念が何を基準にするのかで違ってくることは自然淘汰が何を単位として行われるのか考えるうえでもきわめて重要である。なぜなら、御存知のとおり「自然淘汰」のメカニズムは「優勝劣敗」であるが、実はこの「優劣」は遺伝子の「優劣」なのである。そして、「性善説」と「性悪説」の対立も元をただせば「遺伝子」の利害は「個体」の利害との結びつきが強いか、それとも「種」の利害との結びつきが強いかという論争なのである。