「銃」をめぐる論争

 ある国では、銃を規制すべきかどうかで激しい論争が起きている。この論争について別の表現をすると、銃が社会にとって有益であるかそれとも有害であるかの論争である。

 ここで、銃が「有害」であるとする説では「銃」はすべての物を破壊し、その生命を奪うだけの道具であり、現に多くの人々がこの「銃」のために死んでいるので「銃」は絶対にこの世界から無くさねばならないと主張している。一方、銃が「有益」であるとする説では「銃」が存在するがゆえに強盗などの被害にあったときにこの「銃」で報復できるため、「銃」は犯罪を防ぐ役目をしており、したがって「銃」は絶対にこの世界から無くしてはならないと主張しているのである。

 したがって、銃規制反対派はこの社会には「犯罪」が避けれないので民衆には銃を持たせる必要があると訴えるのである。一方、銃規制賛成派はこの「銃」そのものが犯罪の原因となっているので「銃」は絶対にこの世から無くさねばならないと訴えており、これら両者の意見は真っ向から対立しているのである。

 この2つの説はちょうど先述の「性善説」と「性悪説」に対応している。つまり、「性善説」ではすべての生物は互いの他の生物の立場を考えて行動するので絶対に他の生物にとって害になる行動(つまり「犯罪」のこと)をしないと考えるのである。一方、「性悪説」では生物は一切他の生物の立場を考えて行動することがないので「犯罪」などの「社会」をふくむ「生物界」全体の利益に反する行動が避けれないと考えるのである。

 しかも、先述のとおり最近の研究ではほとんどの自然淘汰は「性善説」では説明できないことが明らかとなり、この古くからの学説である「性善説」の旗色はきわめて悪くなっているのである。したがって、この事実を説明するために「性悪説」なる学説が考え出されたなである。

「武器」の力は絶対水準ではなく相対水準で決まる

 さらに言うと、日本でも大昔にこの「銃規制」に相当することが行われたのである。このことを具体的にいうと、政府(当時の日本ではこの政府を「幕府」と呼んだ)が民衆から刀を取り上げたのであった(このことを「刀狩」と呼ぶ)。もちろん、この「刀狩」の目的は民衆が幕府を倒すことを阻止するためであった。つまり、「刀狩」の目的は幕府が民衆を思うままに搾取するためだったのである。

 つまり、「刀狩」は決して犯罪を防止するためではなく、幕府が絶対権力を確立するために行われたのである。このことを一般的に言うと、ほとんどの場合「刀狩」など民衆から武器を取り上げる行為は政府の独裁のために行われたのである。つまり、民衆が武器を持たなくなれば政府が武器を独占できるので絶対権力を手に入れれるからである。しかも、政府が手にした絶対権力を善意のために使った例はほとんど存在せず、ほとんどの場合絶対権力を持った政府は民衆を弾圧、虐殺したのであった。このように、武器の威力はその絶対量ではなくそのまわりの武器の量との比較で決まるのである。つまり、自分のみが武器を持っており他の誰もが武器を持っていないときにはその武器の威力は最大となるのである。

 また、同じ理由から警察はわれわれ民衆よりもはるかに強く、かつ大量の武器を持っている必要があることがわかる。なぜなら、警察が武器をほとんど独占していれば民衆の持っている武器を無力化することとなり、したがって絶対に民衆は警察に抵抗できなくなるからである。そして、政府が善良であるならばこうして確立した警察(言うまでもなく「警察」は「政府」の一部である)の絶対権力が犯罪を防止するのに役立つのである。

 しかし、政府が善良でない場合には警察は政府がそれに対する反対運動を弾圧する「独裁政治」となるのである。なお、政府に反抗する者を弾圧する組織を「秘密警察」と呼び、この「秘密警察」によって刑罰を受けた者を「政治犯」と呼ぶ。

 解説…「政治犯」なる語はもちろん「政治」に対する「犯罪者」という意味であるが、この場合「犯罪」をおかしているのはむしろ「政府」およびその手下である「警察」のほうである。なぜなら、「政治犯」は政府が作った(悪い)法律によって「犯罪者」と認定された者を指し、この「政治犯」は政府を批判しているけれども決して道徳上悪いことをしていないからである。したがって、政府を批判してその結果「犯罪者」なる烙印を押された者を政治「犯」と表現することは言葉のあやに過ぎないのである。

 また、上記のことから法律上の「犯罪」と道徳上の「犯罪」は必ずしも一致しないことがわかる。つまり、上記のとおり政府を批判することは法律上の「犯罪」に当たるが道徳上の「犯罪」には該当しないことが多いのである。ここで「道徳上の犯罪」とは他の生物に危害を与えることを指し、また善悪を論議するときの「悪」とはつまりこの「道徳上の犯罪」を意味するのである(このことについては後に詳しく述べる)。

 したがって、以上のことから法律は犯罪を防止するためだけではなく、その立法者(通常「政府」および「政治家」である)に対する批判を封じるためにつくられたことが多いことがわかる。なぜなら、言うまでもなく法律を作った者は自然淘汰の産物であるわれわれ生物であり、したがって当然ながら法律はその立法者に有利になるような傾向があるのである。この事実もまたほとんどの生命現象(もちろん「社会現象」も「生命現象」の一種である)が決して「性善説」では説明できないことを証明している。

「武器」の隠された機能…「毒」をもって「毒」を制す

 また、武器にはある者がその武器を持ったときその他の者が攻撃しにくくなるという効果もあるのである。たとえば、全民衆が銃を持っていれば民衆は銃による復讐を恐れるので他の者に攻撃をしかけなくなるのである。したがって、銃規制反対派の主張するとおり武器は犯罪を防ぐ役目も持っているのである。この事実は、一見すると銃が何の役にも立っていないように見える。なぜなら、全民衆が銃を持っているおかげでその銃が使いづらくなり、したがって一見すると銃がまったくその機能を果たしていないように見えるからである。

 しかし、ここで少し考えてもらいたいことがある。つまり、銃が使われないことは要するに銃による犯罪が起こらないことを意味するので良いことであることが直ちにわかる。つまり、もちろん「銃」自体は破壊だけに使われるので有害なものであるが、この「銃」の存在が他の銃を使いにくくしているので間接的に「銃」はわれわれに利益をもたらしているのである。

 このように、それ自体は有害なものであるが、その有害な性質が他の有害なものを駆逐するため結果としてわれわれにとって有益となるものを「必要悪」と呼ぶ。そして、この「必要悪」なるものは「銃」などの「武器」以外にもたくさん存在しているのである。例えば、われわれは害虫にとって敵となる生物(この生物のことを「天敵」と呼ぶ)を害虫駆除のために利用しているのである。

 また、第二次世界大戦(1939〜1945年に起こった大規模な戦争)以降はこの地球上では大規模な戦争はまったく起きていないが、実はこの理由として近年になって「核兵器」などの一度に大量の人を殺せる兵器が生まれたことがあげられるのである。なぜなら、逆説的ではあるが「核兵器」などの強力な兵器ができたことによってはじめてわれわれ人類は戦争による生命、資源、財産などの被害や損失の大きさを認識し、その結果それらの被害や損失を恐れてわれわれ人類はよほどのことがない限り戦争をしかけなくなったのである。

 では、核兵器が「良いもの」であるかと言えばもちろんそうではないのである。なぜなら、先述の理論では核兵器が戦争を防止しているという結論になったが、このことはあくまでも「結果論」にすぎないからである。つまり、だからといって核兵器には大量の生物を殺し、多くの建物を破壊する機能しか存在しないことは何ら変わりなく、したがって核兵器はこの世界から一刻も早くなくすべき対象であることは揺らぎようのない事実なのである。また、この「核兵器」を生み出した科学技術が「悪いもの」であるかと言えばやはりそうではない。なぜなら、「核兵器」を生み出した元凶は決して「科学技術」そのものではなく、この「科学技術」なるものを戦争に勝つために悪用した軍人の心だからである。つまり、以上のことから「武器」自体には「善」や「悪」なる概念が存在せず、悪いのは言うまでもなくその「武器」の使い方でなのである。

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