ダ−ウィンをも悩ませた難問
当然のことだが、われわれが暮らしている生物界には「争い」がつきものである。たとえば、動物は食糧になる生物をめぐって他の動物と絶えず闘争を繰り広げている。この極端な例として、2個体の動物が互いに闘争しあい、この「闘争」に勝ったほうが負けたほうを「食糧」として食べるという例まで存在するのである。また、動物の「雄」は食糧のみならず自己の繁殖に必要不可欠な、己と同種の「雌」の個体をめぐって他の雄と激しい争いを繰り広げている。
このような争いは、生物界全体にとっては明らかに大きな「損失」となっている。なぜなら、これらいずれの「争い」も一方が勝てば必ず他方が負ける、いわば「ゼロサム・ゲーム」だからである。そのうえ、これらの「争い」では大量の食糧を消費するだけではなく、「争い」の参加者双方とも互いに相手を攻撃するのでこの「争い」に負けたほうはほとんどの場合「死」に至り、一方の勝ったほうもかなりのダメ−ジを受け、その結果勝ったほうも決して得をしないのである。
生物界のいたるところにこのような「争い」が存在することは、従来の自然淘汰説ではとても説明できない(この章の後のほうでこうした「争い」の進化をも説明できる新しい自然淘汰説について述べる)、生命科学界最大の「謎」だったのである。特に、「雌」をめぐる「雄」同志の争いについては、「種」にとっての利益を最重要視する(われわれ生物が子供をつくるのも「種」の利益のためである)従来の自然淘汰説とは真っ向から対立する極めつけの大難問であり、この事実が「自然淘汰説」自体を改めさせるきっかけとなったのである。
「性善説」と「性悪説」
従来の自然淘汰説では、自然淘汰は「種」という単位で起こると考えられてきた。このような学説を一般に「群淘汰説」という。なお、このように同種の個体の集団に対して作用する淘汰を総称して「群淘汰」と呼ぶ。もちろん「血縁淘汰」や「種淘汰」も一種の「群淘汰」なのである。
ところで、「群淘汰説」は生物同志が互いに協調しあって行動することを前提に考えられた淘汰説なのである。このように生物は互いに他の生物の都合を考えて行動するという学説を「性善説」といい、「群淘汰説」とは言うまでもなく「性善説」を生命科学に適用した学説なのである。
なお、この「性善説」の「善」という語の意味は言うまでもなく「利他的」(全生物が他の生物にとって利益になるように行動する性質)という意味である。したがって、「群淘汰説」は全生物が「利他的」な行動をするという学説であり、したがってこのような行動は生物界の全メンバ−にとって利益につながるので、「優勝劣敗」を基本原理とする自然淘汰については長い間この「群淘汰」だけが唯一の自然淘汰のメカニズムであると信じられてきたのである。
ところが、多くの動物では「角」や「牙」など「雄」の個体にだけついている器官が存在しているのである。ここで重要なのは、これらの器官が「雄」だけに存在している(したがって、「雌」にはこれらの器官はついていない)という事実である。したがって、これらの器官が存在する理由はもちろん異種の生物と闘うためではない。なぜなら、これらの器官が異種の生物との戦闘に使われるならば「雌」にこそついていなければならないからである(この章の後で詳しくのべるとおり、「雄」は種の生存にとってはほとんど必要のないものなのである)。
したがって、「角」や「牙」など「雄」だけについている器官の用途を他に考える必要がある。この「用途」とは「雄」が子を作るために必要不可欠なこと、すなわち「雌」をめぐる「雄」同志の闘いなのである。ところで、「雌」は異性の個体をめぐって争わなくても(「雄」が作る「精子」の数は「雌」が作る「卵子」の数よりもはるかに多い)子が作れるのでこのような器官は必要なく、したがって「雌」には「角」や「牙」など闘争に用いる器官はついていないのである。
このように、地球上の生物には雌をめぐる雄同士の争い(この争いのことを「雄間競争」と呼ぶ。なお、ここでいう「雌」とは個体のことではなく卵子をつくるという性機能のことである(「雌」であると同時に「雄」でもある個体も少なからず存在していることを忘れないでもらいたい。)。)が著しく進化したものが多く、生物によってはその雄は雌をめぐって争うためだけに生きているもの(ゾウアザラシなどがその例である)も存在するのである。
このような文字通り「百害あって一利なし」の雄間競争が起こる理由は、言うまでもなくほとんどの動物ではその個体が1種類の配偶子(「精子」または「卵子」)しかつくることができないからである。しかも、精子は卵子と比べてはるかに小さいので大量につくられ、したがって精子は卵子に対してつねに供給過剰の状態にあるのである。したがって、必然的に「精子」のみをつくる個体(「雄」のこと)は「卵子」をめぐって争うこととなり、これがいわゆる「雄間競争」となるのである。
その他の例として、密集して生えている樹はまばらに生えている樹よりもはるかに高く伸びているという事実があげられる。この理由は、密集して生えている樹はまわりの樹と日光をめぐって奪いあいをしているためどうしても高くならざるを得ない(まわりの樹よりも高い樹は多くの日光を得ることができる)からである。
これら2つの例はいずれも「雌」や「日光」などその総量が一定である資源の配分をめぐる争いが原因であることに共通点があるのである。
以上の事実は、一見すると「『必要』は『発明』の母」という自然淘汰の基本原理に反しているように見える。しかし、上記の「必要」という語の意味を「種」ではなく「個体」にとって「必要」であるという意味に解釈すればまったくこの基本原理のとおりなのである。
このような自然淘汰のメカニズムを説明するには従来の自然淘汰説(群淘汰説)で用いられてきた「性善説」なる考えではなく、生物は他の都合を考えず自己の都合のみを考えて行動するという考え方(この学説のことを「性悪説」)が必要となるのである。そして、ほとんどの自然淘汰は「性善説」よりもむしろこの「性悪説」を用いたほうがはるかにうまく説明できるのである。