「ホルモン」は郵便、「神経」は通信である
「ホルモン」には個体を成長させる「成長ホルモン」や生殖に関係する「性ホルモン」など実にたくさんの種類が存在している。ところで、この「ホルモン」は数種類のアミノ酸の集合体(したがって、「ホルモン」は蛋白質の一種でもある)にすぎないのである。したがって、たとえば「成長ホルモン」自体はその生物の身体を大きくすることは不可能であり、したがって「成長ホルモン」が身体を大きくする他のメカニズムが存在するのである。
この「メカニズム」とは、言うまでもなく「成長ホルモン」が細胞に対して分裂するように命令する機能のことである。すなわち、「ホルモン」はそれ自身では身体に影響を及ぼすことは不可能であり、したがって、「ホルモン」は身体のある器官に対してある命令を行い、それによって間接的に身体に影響を及ぼすのである。
その他の例として、「インシュリン」があげられる。この「インシュリン」はブドウ糖を「グリコーゲン」という他の糖質に変える働きをもつホルモンなのであるが、もちろん「インシュリン」自体には「ブドウ糖」を「グリコーゲン」に変換する機能は存在しない。したがって、「インシュリン」の役目は「ブドウ糖」を「グリコーゲン」に変換する機能をもつ器官(肝臓など)を制御し、それによって血液中の「ブドウ糖」の濃度を一定の範囲内に保つことなのである。
したがって、その他にももちろん「消化」に関するホルモンもたくさん存在するが、これらの「ホルモン」の役目は言うまでもなく消化酵素を出す器官を制御し、その消化酵素の量を調節することであり、もちろん「消化」に関するホルモン自体は「消化酵素」のような働きを持っていないのである。
このように、「ホルモン」は一見すると「酵素」と同じような機能を持っているように見えるが、実は先述のとおり「ホルモン」と「酵素」はまったく別のものなのである。つまり、「ホルモン」は言わば臓器などに対してメッセージを送る「手紙」のようなものなので「ホルモン」自体は「酵素」みたいに生体物質に直接働きかけることはしないのである(ついでに言うと、「酵素」は触媒(化学反応を速める働きをもつ物質のこと)の一種なのである)。
また、「ホルモン」がきわめて少量で生体に影響を及ぼすことができるのも、ホルモンはそれを構成するアミノ酸の組み合わせだけが重要なので極端なことを言えばその「ホルモン」の分子が1個でもあればその「ホルモン」は器官に対して命令することが可能であり、したがって「ホルモン」としての役目を果たすことができるからである。
この理由は、「ディジタル」な通信方式がわずかな電力で情報を伝えることができるのとまったく同じなのである。つまり、臓器などは「ホルモン」の量ではなくその化学構造だけを問題にするので少数でもその「ホルモン」の分子が存在していれば臓器はそれを感知し、その命令に従って酵素を分泌するなどの動作を始めるからである。
このように、身体は「ホルモン」の量ではなくその原子の配列だけを問題にするのでこの「ホルモン」は実に「ディジタル」な生きるためのしくみなのである。このことが「ホルモン」と「酵素」の最大の相異点なのである。つまり、「酵素」はその量が重要であるから「アナログ」なしくみであるが、「ホルモン」ではその分子が存在しているかどうかだけが重要でその量を一切問題にしないから「ディジタル」なのである(もっとも、「ホルモン」も「酵素」も多数のアミノ酸からできた一種の「蛋白質」であることは共通しているが)。
したがって、「ホルモン」の働きはむしろ「神経」の働きに似ている。すなわち、「神経」とは言わば生体内に張り巡らされた一種の「通信網」のことで、この「神経」を流れる信号にはその強さよりもむしろパルスの数のほうに意味があるのである。なぜなら、信号は伝送するうちに次第に減衰し、そのため信号の元の強さはわからなくなってしまうが、そのパルスの数は長距離にわたって伝送してもめったに変化することがないからである。
このように、われわれ生物は「遺伝子」、「ホルモン」、「神経」、そして次に述べる「脳」など実に多数のディジタルシステムを採用しているのである。この理由は、言うまでもなく「ディジタルシステム」は「アナログシステム」と較べて桁違いにノイズに強く、そのうえ「ディジタル信号」は「遺伝子」⇔「ホルモン」⇔「脳」⇔「神経」間などの物理的に異なる信号間の変換が「アナログ信号」よりもはるかに容易だからである。
「頭」で覚えるのは左脳、「体」で覚えるのは右脳
「脳」は「左脳」と「右脳」という大きく異なった特徴をもつ2つの部分に分かれており、これらの2つの脳の特徴を一言で言うと「左脳」は「ディジタル」、「右脳」は「アナログ」な「脳」ということになる。すなわち、一般的に「左脳」は論理的、「右脳」は情緒的な思考を担う「脳」なのである。したがって、一般的には物事を考えたり覚えたりときや勉強したりするときなどには主に「左脳」を使い、運動するときや恋愛のときなどには主に「右脳」を使うのである。
したがって、われわれはよく物事を「体で覚える」という表現を使うが、実はこの「体で覚える」という物事の覚え方はこの「右脳」を使って物事を覚えるという覚え方なのである。したがって、正確に言うとこの「体で覚える」という表現は間違った表現である。つまり、「右脳」も「左脳」も同じ「脳」の一部分に過ぎず、「ディジタル」、「アナログ」どちらの覚え方も「脳」を使う覚え方という点では共通しているからである。
それにもかかわらず、われわれは「右脳」を使って(すなわち、「アナログ」な方法で)物事を覚えることを「体で覚える」という明らかに誤った表現をしている。この理由は、「右脳」は主に運動するときに使われているという事実からも分かることだが、「右脳」で覚えるということはすなわちわれわれの体の動作を通じて物事を覚えるということだからである。もう一つの理由は、「左脳」は主に物事を考えたり研究したりするときに使う「脳」なので「意志」と密接に関係しているが、「右脳」は主に体を動かすときに使う「脳」なのでほとんど「意志」と関係がないからである。これを言いかえると、「左脳」は「知能」、「右脳」は「本能」をつかさどる「脳」だということになる。
この事実は、「アナログ」とは物理的なしくみで情報を記録したり伝送したりする方法であるという事実とも符号している。すなわち、「アナログ」な方法で物事を覚えるということは物理的な方法で物事を覚えるということなので、自分の体に関することを参考にするより他に方法がないのである。もちろん、「体」というものは物理的な存在である。しかし、「アナログ」、「ディジタル」どちらの方法をとっても物事を覚えるときに実際に使う器官は、もちろんわれわれの身体で唯一の情報処理器官である「脳」より他にないのである。
なお、「右脳」は「本能」をつかさどる「脳」なので(「本能」は「食欲」、「性欲」などのように種族の存亡と直接関わることなのである)「脳」を持つすべての生物にわたって存在するが、これに対し「左脳」は「知能」をつかさどる「脳」なのでいわゆる「知的生物」だけにしか存在しないのである。したがって、「魂」とは「生命」をつかさどる一種の「素粒子」であることがほぼ明らかになっているが、もしこの「魂」が存在するとすればもちろん「意志」をつかさどる「脳」、その中でも「意志」と密接な関係にある「知能」をつかさどる「左脳」に「魂」が存在している(この仮説は、「魂」が「ヒト」などの高等動物だけに存在するという俗説とも一致している)と考えるよりほかにないのである。