遺伝子…「画期的」な大発見
「遺伝」のしくみは「ディジタル」である。この事実は今ではあたりまえのことであるが(実をいうと「遺伝」が「ディジタル」なことは一般にはほとんど理解されていない)19世紀の終わりにメンデルによって「遺伝因子」(後に「遺伝子」と呼ばれる)が発見されるまでは、誰もが「遺伝」現象はインクを混ぜ合わせるのと同じメカニズムで起こると信じられてきた。すなわち、子供の性質は両親の2つの性質が混ざり合ってそれらの中間の性質になるので、もう2度と両親のような性質をもつ個体は生まれて来ない、長い間そう信じられてきなのである。
ところが、メンデルは19世紀になって「遺伝」という現象は「遺伝子」(発見された当時は「遺伝因子」と呼ばれていた)という離散的な単位で起こり、この「遺伝子」は決して混じりあうことはない。これを言いかえれば、「子」は「親」から親のもつ遺伝子を受け取るか、それとも受け取らないか、この2つのケ−スしか生じないのである。という事実を発見した。
この発見は、実はドルトンによる「原子」、アボガドロによる「分子」の発見の言わば「生命科学版」に相当する画期的な大発見なのである。すなわち、「分子」や「原子」の発見により当時すでに物質が離散的な構造をしていることは知られていたが、メンデルによって生命現象までもが離散的なしくみをしていることが明らかになったのである。しかし、このメンデルの画期的な発見はメンデルが「遺伝因子」を発見してから実に半世紀近くも無視され続けていたのである。しかも、現在でも「遺伝子」が物質界における「分子」や「原子」に相当するものである、という類の表現は(本書以外には)ほとんど見られないのである。
そして、この事実こそが情報処理方式や通信方式においてもディジタル方式のほうがアナログ方式よりもはるかに優れている(1章で述べたとおり、生命科学は「工学」にきわめて近い学問なのである)ことを裏付ける決定的証拠となるのである。
「遺伝」のしくみ
メンデルは、「遺伝」のしくみが「離散的」なことと同時に、「遺伝」の法則も発見した。これが現在「メンデルの法則」と呼ばれている法則である。
「メンデルの法則」とは、親の遺伝子型がabならば、その子供の遺伝子型はa*、b*(*は子供のもう片方の親からの遺伝子)のうちいずれか一つであり、しかもこれら2つの遺伝子型は半分ずつの確率で現われる、という法則である。
この「メンデルの法則」によって、よく似ている親子や兄弟でも似ていない部分があることをうまく説明できるのである。すなわち、親が子供に与える遺伝子は親がもっている遺伝子のうちの半分だけであり、残りの遺伝子はその子供のもう一方の親から与えられるのである。したがって、親とその子供に共通の遺伝子は全遺伝子の半分だけであり、もう半分の遺伝子は異なる遺伝子なのである。したがって、たとえ親子でも半分くらい似ていないところが存在するのである。
また、まったく同じ両親をもつ兄弟(ついでに言うと、片方の親が異なっていても「兄弟」という。)でも半分ぐらい似ていない部分があることもやはり「メンデルの法則」によっていとも簡単に説明できる。すなわち、親に複数の子供がいる場合、2個体の子供に与えられる遺伝子のうち2個体に共通のものは親が与えた遺伝子のうちの半分だけなのである。この理由は、「精子」や「卵子」(両方を合わせて「配偶子」と呼ぶ)によって親からその子供に「遺伝子」が伝えられるが、同じ個体によって作られた「配偶子」でも平均すると共通の遺伝子は半分しか存在しないのである。なぜなら、「メンデルの法則」から遺伝子型abの同一個体の配偶子P、Qに両方とも遺伝子a、遺伝子bが与えられる確率はそれぞれ1/4、一方に遺伝子a、もう一方に遺伝子bが与えられる確率は1/2である。
したがって、同一個体の配偶子P、Qに同じ遺伝子、異なる遺伝子が与えられる確率はそれぞれ1/2である。したがって、両親が同じ兄弟ならば両方の親について上記のことがいえるので平均すると共通の遺伝子は全遺伝子の1/2だけ存在するのである。なお、片方の親だけが共通な兄弟ならば共通の遺伝子は平均して全遺伝子の1/4であることが上の文章から直ちにわかる。
この法則は、血液型の遺伝などで一般にもわりとよく知られている。つまり、親子や兄弟でも血液型が異なるケ−スは頻繁にある。一方、他人でも血液型が同じというケ−スはもっと頻繁にある。他のもっと一般的な例では、「性」は「雄」と「雌」の2つしか存在せず、しかも当然のことながら親子や兄弟でも性別が異なるケ−スが全体の半分あり、逆に非血縁者でも性別が同じというケ−スも全体の半分ある。この理由は、哺乳類の場合「性」が性染色体という特別な染色体によって決められるからであり、性染色体の組み合わせがXXならば「雌」、XYならば「雄」となる。しかも雄同志、雌同志の交雑は許されないので(染色体=遺伝子と考えると性染色体についてもメンデルの法則が適用できる)、XX,XYという2つの染色体の組み合わせしか生じないからである。
解説…ここでいう「メンデルの法則」は実はメンデルが発見した遺伝に関する法則のうちの一つ(「分離の法則」という)である。なお、以前は本文で取り上げた「分離の法則」と「独立の法則」、「優性の法則」を合わせて「メンデルの法則」と言った。しかし、現在では「独立の法則」は遺伝の法則としては認められていない。なぜなら、メンデルによる遺伝法則の発見の後(20世紀初頭)に「遺伝」の連鎖現象が発見され、このさらに後にはこの連鎖現象の原因が遺伝子がバラバラに存在するのではなく、「染色体」という「塊」の上に存在し、したがって同一染色体上にある遺伝子は減数分裂(「配偶子」をつくるときに起こる)をするときに一緒に移動し、これが「連鎖」の原因となる。したがって、「2つの遺伝子対が同一染色体上にあるときにはそれらの遺伝子対は「連鎖」、異なる染色体上にあるときは「独立」となる」というのが正しい「遺伝」の法則なのである。
さらに、「優性の法則」に至ってはこれを「法則」として認める、認めない以前の問題なのである。このことを説明すると、原則としてすべての遺伝子が個体に及ぼす影響の総和が「表現型」となって現われる。ここで異なる機能をもつ遺伝子が重なったケ−スについてははこの原則があてはまり、このケ−スがいわゆる「不完全優性」のケ−スである。この「不完全優性」のケ−スこそが実は(通説に反して)ジェネラルケ−スなのである。ただし機能を持たない遺伝子も少なからず存在し、この遺伝子は同じ遺伝子が2つ重なった場合だけはっきりと「表現型」として現われるのである。この機能を持たない遺伝子のことを「劣性遺伝子」(これに対して機能を持つ遺伝子は「優性遺伝子」という)といい、この「劣性遺伝子」が存在するケ−スがいわゆる「優性、劣性」の生じるケ−スなのである。したがって、遺伝子の間に「優劣関係」が生じるるケ−スはむしろスペシャルケ−スなのである。
さらにもっと根本的なこととして、「優性、劣性」というのは遺伝子の遺伝に関する性質ではなく、遺伝子の機能だということにも皆さんも気付いてほしい。これを具体的に説明すると、「劣性」遺伝子だからといってもちろん次世代に伝えられずに消滅してしまうわけではなく、優性遺伝子の機能にかき消されて表現型として現われない、ただそれだけの話なのである。すなわちこの遺伝子の「優劣」というのは言うまでもなく「遺伝」のし易さではなく、「表現型」としての表れやすさのことなのである。したがって、遺伝子の機能に関する法則を遺伝そのものに関する法則と一緒にするのは「場違い」もはなただしい実に愚かな行為なのである。
さらに、こうした一人の学者の考えを鵜呑みにするという実に愚かな行為をしつこくやっているのは他ならぬ「学校教育」なのである。事実、学校教育における科学法則の教え方には実に目に余るものがある。すなわち、「メンデルの法則」に限らず、学校教育では「運動の法則」、「ケプラ−の法則」、「熱力学の法則」などの科学法則を学者(ケプラ−、ニュ−トン、メンデルなど)の書いた文章そのままの形で教えているのである(この事実について詳しくは4章で触れる)。さらには、偉大な学者の考えたことはたとえそれが間違っていてもよほどのことがない限り修正しようとしない(このことは「冥王星」の例をみればすぐにわかる)傾向が学校教育にはある。
この文からもわれわれの通常のものの見方、考え方(「常識」や「通説」と呼ばれている)が実は一人の学者の意見に過ぎないことが実によくわかるのである。特に学校教育はすべてのものの見方、考え方がいくつかの「カテゴリ−」の中に押し込まれ、それ以外の見方、考え方は一切教えないというとんでもない代物なのである。中でも(このことについては4章でも詳しく述べる)科学法則に至っては学者の発表した文章をそのまま教科書に丸写しし(ここで述べている「メンデルの法則」ももちろん例外ではない)、科学法則についてそれ以外の表現方法は一切行わないという、まさに「科学」教育というよりも「宗教」教育と言ったほうが適切なくらい無茶苦茶な教育内容になっているのである。
このように学校教育は(あたりまえではあるが)「宗教教育」ではなく「科学教育」なのだから「事実」だけを教えなければならないのである。さらには、物事が「法則」として成立するためには「証拠」や「事実」による裏付けが必要不可欠なのであり、これらによる裏付けを欠いたものを「法則」と呼ぶ資格など絶対にないのである。
そして、ここで問題になっている「独立の法則」や「優性の法則」は「証拠」や「事実」による裏付けをまるで欠いており、これらの法則が例外だらけなことがそのことを物語っているのである。しかも、「科学法則」にはそれを裏付け、証明する「科学理論」が必要不可欠であり、したがって「科学法則」に「例外」が存在するということはその法則が間違っていることの証なのである。つまり、よほどのことがない限り「科学法則」には「例外」など存在してはいけないのである。
なお、学者の考えたことを何の修正もせずにそのまま発表したり教えたりすることを「鵜呑み」と言う。そして、学校教育はまさに学者の考えの「鵜呑み」ばかりやっているのである。こんなシステムの学校教育では「魂」のような一つの「カテゴリ−」に収めることが不可能なものを教えることなど到底できるはずがない。一刻も早くこんな無茶苦茶な学校教育のシステムを改めてもらいたいものである。