生い立ちから「ディジタル」…「量子論」

 「量子物理学」は20世紀初頭に2人の偉大な物理学者、プランクとアインシュタインによって考え出された、従来の物理学とは大きく異なる「非常識的」な物理学である。ところで、プランクやアインシュタインが提唱した「量子説」はいずれも「連続的」なもの(「波動」のこと)と考えられてきた「電磁波」が同時に「離散的」なもの(「粒子」のこと)でもあるという考えなのである。

 このように、生まれたころの「量子物理学」は本来「連続的」な性質をもっている「波動」を同時に「不連続」な「量子」であるとも考えるという、われわれが「量子物理学」に対して通常抱いているイメージとはまったく正反対の性格を持っているのである。なお、「量子力学」、「量子物理学」や「量子論」などの「量子」のつく用語の語源も本来「連続的」なはずの「波動」を「粒子」(量子物理学ではこのような「粒子」のことを「量子」という)であるとも考えるところから来ている。このように「量子論」の語源ひとつとってみても「量子論」とは元来「あいまい」とは正反対の「離散的」な考え方をする学問だということがわかる。

 その後、逆に「電子」のように元来「粒子」であると考えられていたものが「量子物理学」では同時に「波動」であるとも考えられるようになった。これを裏付ける原理が「不確定性原理」なのである。この原理は、物事は「確定的」ではないという「原理」(ただし、「プランク定数」がきわめて小さいため「不確定性原理」がはっきりと現われるのは原子や素粒子などミクロの世界だけである)である。これ以後、「量子物理学」はむしろ「あいまい(ファジー)」であるという、われわれが通常もっているイメージが生じたのである。

「量子論」の二面性は「もの」と「こと」の二面性

 ところで、「量子論」とはすなわち「もの」と「こと」を融合する学問なのだから「ファジー」かつ「離散的」という本来相反する性格をもっているのはむしろ当然のことなのである。つまり、「電子」などのように元来「粒子」とみなされていたものを「波動」としても考えると「ファジー」、逆に「電磁波」などのように「波動」ともなされていたものを「粒子」とも考えると「離散的」なのである。

 したがって、「量子論」は「もの」の側からみると「ファジー」、「こと」の側からみると「離散的」なのである。というのも、「量子論」とは単に「粒子」と「波動」を融合する学問なのではなく、もっと一般的に「もの(物質)」と「こと(現象)」さらには「もの」と「こと」の属性である「離散性」と「連続性」を融合する学問だからである。なお、もっとこれをつきつめて考えると「量子論」とは「名詞」と「動詞」を融合する学問なのである。

 したがって、「量子論」が「ファジー」かつ「ディジタル」な一見矛盾しているように見える性格をもつのはこの学問が本来相反する概念である「連続性」と「離散性」を融合する学問である以上当然のことなのである。

 また、一見すると「逆説的」ではあるが「量子論」の最大の特徴の一つである「離散性」そのものが「不確実性」を生み出す原因になっていることも絶対に忘れてはならない。すなわち、「量子物理学」ではすべての物理量はプランク定数によって決まる最小単位の整数倍の値しかとることが許されないのである。したがって、物理量が「プランク定数」で決定される最小単位に近い場合には「量子物理学」による値(これが真の値である)が「古典物理学」による値と大きく異なることが生じるのである。この理由は言うまでもなく「古典物理学」による値(どんな値でもとり得る)が「量子化」(切り上げ、切り捨て、四捨五入などのこと)されて「量子物理学」による値になるからである。

 なお、このような「量子化」によって生じる現象のことを一般に「量子効果」と呼ぶ。なお、言うまでもなく先述の「超電導」も「量子効果」の一種である。また、この「量子効果」はアナログ信号をディジタル信号に変換するときにも生じ、これによる雑音を「量子化雑音」と呼ぶ。なお、この「量子化雑音」の原因になっている「切り上げ」、「切り捨て」、「四捨五入」などによって生じる誤差のことは一般に「量子化誤差」と呼ぶ。

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