「超電導」の不思議
ある物質を冷やしていくと、その物質はある温度よりも低い温度ではその「電気抵抗」が「ゼロ」となる。この現象を「超電導」という。しかも、この「超電導」の状態にある物質の電気抵抗は完全に「ゼロ」であることが実験によって確かめられている。
ところで、「超電導」で物質の電気抵抗がほんの僅かな端数もなく完璧に「ゼロ」となる理由は「量子物理学」の原理で説明できる。この「原理」とは「『原子』、『電子』、『原子核』などのとり得るエネルギーはとびとびの値しかあり得ない」というプランクの「量子説」なのである。
つまり、「原子」のまわりには「電子」が存在しているが、金属では原子のまわりの「電子」が特定の「原子」に拘束されずに自由に原子間を運動している(このような電子のことを「自由電子」と呼ぶ)。そこで、金属をある温度(この温度を「臨界温度」という)以下に冷やすと、全金属中の電子が一つの電子のような運動(実際には「不確定性原理」により「電子」の「位置」、「速度」ともに不確定である)をする。したがって、電子にほんのわずかな電位差を与えただけでも電子が一斉に運動するので非常に大量の電流が生じるのである。
しかし、実際には電子がある「速度」以上で運動(この運動はいうまでもなく「熱運動」ではなく「ドリフト運動(粒子が同じ方向に動く運動のこと)」)すると超電導状態が崩れる。つまり、電気抵抗が「ゼロ」であるのは電流が小さい間だけなのである。したがって、「超電導」と言えども無限の電流を流すことは不可能なのである。
ところで、このように物質が「超電導」状態でその電気抵抗が完全に「ゼロ」となる真の理由はやはり「電荷」が電子の「電荷」の整数倍の値しかとり得ないということ、さらにその理由は物質が決して無限に分割できるものではなく、「分子」、「原子」、「素粒子」のように分割不可能な「粒子」からできていることなのである。さらに、このように物質が有限個の「素粒子」からできている理由は「素粒子」の大きさが「ゼロ」ではないことなのである。さらにその理由は「プランク定数」が決して「ゼロ」ではないことなのである。
つまり、このように「物質」が「離散的」な構造をしている究極の理由は「プランク定数」の値がゼロではないこと、言いかえると「量子物理学」が正しく、「古典物理学」が間違っている(「古典物理学」は「プランク定数」が「ゼロ」であると考える物理学なのである)ことなのである。
つまり、「量子物理学」では電子などの「粒子」は同時に「波動」でもあるのでその「粒子」が円運動するときにはその軌道上に「定常波」ができないといけない。ところで、この「定常波」の波長は原子の半径に2πをかけ、さらに整数で割った値である必要がある。さらには、「電子」などの運動する「粒子」に伴う「波動」の波長はその粒子の運動量に反比例し、その比例定数は「プランク定数」である。したがって、実は「プランク定数」こそが原子の「大きさ(半径、直径、体積など)」を決定し、さらには「逆説的」ではあるが、「物質」は同時に「波動」でもあるという「不確定性原理」こそが「物質」の構造を「離散的」なものにしているのである。
解説…「超電導」は「超伝導」と呼ばれることのほうが多いが、この場合は「表意文字」である漢字の使い方を考えるともちろん「超電導」のほうがよい。なぜなら、「超伝導」、「超電導」はそれぞれ「super conduction」、「super electric conduction」の訳語であり、「electric(「電気」という意味)」という語が入っているだけ「超電導」のほうがより正確な意味をもっているからである。さらには、「伝導」の「伝」も「導」もよく似た意味の字であり、この観点からも「超電導」のほうが「無駄」な字がないだけ「超伝導」よりも良い。なお、「超電導」も「超伝導」も日本語では同じ発音なので混同しやすく、このことにはよく注意する必要がある。
「ディジタル」最大の特徴
「音声」や「画像」の「ディジタル」記録方式の最大のメリットは、みなさんもよく知っているとおり記録媒体を何回再生しても、またその音声や画像の情報を何世代他の記録媒体へコピーしてもその音質や画質がまったく劣化しないことである。この理由は、「ディジタル記録方式」では記録媒体を保存したり他の記録媒体へコピーするときに生じる「ノイズ(「雑音」のこと、なお音声だけでなく画像に対しても「雑音」という語を用いる)」を完全にゼロにすることが可能だからである。このことは、先に述べた「超電導」では物質の電気抵抗が完全にゼロになることとまったく同じ原理で説明できるのである。
すなわち、ディジタル記録方式では基準値以下のノイズは全部切り捨てられてしまうので、その信号のノイズが基準値を超えない限り音声や画像として表に現われないのである。このことは「ディジタル記録」に限った話ではなく、「ディジタル通信」など一般に「ディジタル」な情報処理方式全てについてあてはまる「一般論」なのである。
そして、このようないくつもの利点をもつ「ディジタル方式」を生物もいたるところで採用している。すべての生物に共通な「遺伝子」、「ホルモン」、動物についてのみ「脳」、「神経」、さらには知的生物が使っている「言語」などがその例なのである。
解説…厳密に言うと、「ディジタル」は「離散的」とは「同義語」ではない。なぜなら、音声などの「アナログ信号」を「ディジタル信号」に変換するには順に「標本化」、「量子化」(この2つを合わせて「離散化」という)、「符号化」という3つ(大きく分けると2つ)の作業を必要とするが、「標本化」と「量子化」が終わった段階では信号は「離散的」な形に変換されてはいるが、まだもとの信号の波形が残っており、したがって「符号化(信号の各時点での値を符号に置きかえる作業をいう)」という作業を経てはじめて変換された「信号」の「波形」がその「意味」とまったく違ったものに変化するからである。
したがって、「ディジタル信号」は「その信号の意味がその物理的性質(信号の強さ、波形など)とはまったく関係ない信号」と定義されるのである。
また、「ディジタル通信」の利点は「ノイズ」をゼロにすることができること以外にもう一つ「伝送」に必要なエネルギーが少なくてすむことがあげられる。この理由は先述のとおり「ディジタル信号」ではその信号の「意味」と「物理的性質」が関係ないのでその信号がどんな意味をもっているか識別さえできればよいのでその信号のエネルギーがわずかで済むわけである。
一方、「ディジタル方式」の欠点としては「記録」、「再生」、「送信」、「受信」装置が「アナログ方式」の装置よりも複雑になることと、後にくわしく述べるとおり「量子化誤差(連続的な信号を離散的な信号に変換するときに生じる誤差)」が生じることがあげられる。
量子論を「ファジー」としか考えないのは偏見である
以上のことから、「量子物理学」は物事を「確率」でしか表現できないという「ファジー(あいまい)」なだけの物理学だけではないことが一目瞭然である。すなわち、「量子物理学」では「古典物理学」とは違って「量子」(量子物理学的な「粒子」のことをこう呼ぶ)が存在するかしないか、2つの状態しか存在しないのである。そして「超電導」という現象がこの事実を端的に物語っている。
なお、このように「量子物理学」が「ファジー」と「離散的」というまったく相反する2つの性格を持っている理由は「量子論」が「もの」を「こと」としても「こと」を「もの」としても考えるからである。もっとも、「量子論」がこのような「二面性」をもつ理由は言うまでもなく「量子論」が互いに相反する性質をもつ「もの」と「こと」を融合する考え方だからである。
したがって、「量子論」を「ファジー」であるとしか考えないのは、すなわち「量子論」を「「もの」を「こと」であると考える」という、いわば「量子論」の片方の面しか見ていないないために起こる一種の「偏見」なのである。