「意味」とは何か?

 「意味」という語は実に頻繁に使われている。しかし、皮肉なことにこの「意味」という語の正確な意味(この表現は決してシャレではない。「意味」も当然のことながら単語のうちの一つなのでもちろん意味をもっている。)は一般にはほとんど知られていない。

 ただし、それでも「意味」は「情報」と極めて関係が深い語であることだけは一般にもよく知られている。つまり、「言語」というものは言うまでもなく情報源の一種である(この事実さえ一般にはあまり知られていない)。そして、「情報」というものの役割はある者を他の者と区別することであり、「番号」や「名称」などがその例としてあげられる。

 また、「言葉」(「単語」の場合も「熟語」の場合もある)の意味には数という概念と密接に関係しているものがきわめて多い。例えば、「大きい」という意味は数量という概念と切っても切れない関係にある。さらに、「長い」、「広い」、「重い」などの語の意味は空間、時間や物質などが「大きい」という意味であり、これらの意味は言わば「大きい」という意味が「特殊化」されたものになっている。

 さらには、「増える」、「増やす」、「延びる」、「延ばす」などの語の意味は言うまでもなく「…が大きくなる」、「…を大きくする」という意味であり、これらの語は言わば「大きい」という語を「動詞化」したものとなっている。

 以上のことから、「数」というものはまぎれもなく「意味」の一種であることが明らかである。さらには、「意味」というものは情報の「種類」のことであることも以上で述べたことから直ちに分かる。

 つまり、「情報」の「量」は「情報量」(エントロピ−の一種である)というもので測られ、この「情報量」は文章の「長さ」と密接に対応している。しかし、情報の「内容」や「質」までは情報量からは判らない。このことは、ある物体がどんな物質で出来ているかはその物体の「質量」からは判らないことに対応している。

 つまり、「情報」と「意味」との関係は丁度「物質」と「元素」の関係と同じであることが直ちにわかる。また、「情報」の「内容」というものは言うまでもなく「意味」のことであり、この「内容」という語は「種類」で置きかえることができる。

 以上で述べたことから、「情報」にも「物質」と同じく「量」だけでなく「質」や「種類」というものが存在し、その「情報」の「種類」に当たるものが「意味」であることが結論として言える。

全ての言語の「文法」⇔「数学」

 さらに、「大きい」という意味に対して「小さい」という意味が存在する。これが「対義語」としてよく知られているが、この「小さい」という意味は「大きさが負数や分数である」なのである。さらには、ご存知のとおり「AはBより大きい」と「BはAより小さい」という2つの文の意味はまったく同じである。

 つまり、「対義語」というものは数学でいう「反数(絶対値が同じで、符号だけ変えた数)」や「逆数」などの「逆元」に相当している。それだけでなく、「…が小さくなる」、「…を小さくする」という意味を持つ語として「減る」、「減らす」という語があるが、「引き算」や「割り算」の目的もやはり通常(もちろん例外もあるが)もとの数を「減らす」ことである。

 それだけでなく、数学には「動詞」に相当するものもちゃんと存在する。これが「関数」や「演算子」というものである。つまり、「関数」や「演算子」の役目はある「数」を異なる「数」に変換することなのである。この作業を「演算」あるいは「変換」と呼び、これについてもこれと対をなすものが存在する。これが「逆演算」(「足し算」に対する「引き算」など)や「逆変換」というものであり、この「逆変換」を行う関数が「逆関数」(したがって、「逆関数」は関数の「逆元」であると言える)なのである。

 このように、「関数」や「演算子」は「数」を「変換」するという一種の「動作」を表している。したがって、「関数」や「演算子」は「動詞」に相当するものだということが直ちにわかる。もちろん、「名詞」に相当するものは(詳しく述べなかったが)「数」(「定数」、「変数」、「既知数」、「未知数」などを全てひっくるめて)である。

 さらには、数学には「形容詞」に相当するものも存在する。これが「関係演算子」(=、<、>、≠など)なのである。つまり、「関係演算子」の役目は「大きい」、「小さい」などの「数」の状態を表すことなのである。これについても、もちろんこれと対をなすものが存在する。例えば、上記の文を数式で表すとそれぞれ「A>B」、「B<A」となる。この数式の意味はみなさんもご存知のとおりまったく同じである。つまり、「>」と「<」は互いに「逆元」であると言える。

 さらに、もちろん数学で「文章」に相当するものも存在し、それは言うまでもなく「式」である。さらには、「文章」には「単文」だけではなく「複文」(文の中にさらに小さな文(「節」という)がふくまれている文を「複文」と呼ぶ)が存在するが、「式」でそれに相当するものを作るのが「括弧」なのである。

「意味」が「主」、「言語」は「従」

 このように、「意味」というものは「数」の概念と密接に関係している。このことから、「意味」がすべての言語に共通の概念であることが説明できる。すなわち、どんな時代、場所でも、どんな物に対しても1つのものは1つ、2つのものは2つである。このように、「数」は時間、空間などによらない全宇宙に共通の概念なのである。 ここで、「数」は言うまでもなく「意味」の一種である。したがって、「数」について当てはまることはそのまま「意味」全般にもあてはまる。

 したがって、(1章でも述べたことだが)「意味」というものは言語の存在とは一切関係なく超然と存在することが上記のことからわかる。これを言いかえると、「言語」というものは「意味」を伝送、記録するための手段の一つのすぎないのである。

 しかし、われわれは科学に弱いせいもあって以上に述べたことは一般にはほとんど知られていない。この理由は、われわれほとんどの者は言語を使わずに物事を考えることができないからである

 しかし、それでも「言語」を他の言語に「翻訳」できるのは、「意味」というものが言語に関係なく共通であるからだということだけはわりと知られている。

 したがって、もし地球外生物が発見されたときには(巷ではもう発見されているとも言われているが)、その地球外生物自体(地球外生物が生きてゆくしくみのこと)だけでなく、その地球外生物が使っている言語についても研究してもらいたい。そして、その言語が意味を伝えるしくみが解明されたとき(そのときには地球上にある言語への翻訳も可能になる)、はじめてこの宇宙で「意味」が主役、「言語」は脇役にすぎないことが明らかになると予想されている。

 なお、ほとんどの者が言語を使わずに物事を考えれない理由は、われわれ「人」が宇宙レベルでは決して「知的」であるとは言えないからであり(20世紀の前半までしょっちゅう戦争を起こしていたことからそのことが分かる)、「われわれは科学に弱い」という一言がそのことを表している。

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