非常識(?)な考え…量子論

 長い間、「もの」と「こと」はまったく相容れないものだと考えられてきた。しかし、20世紀に入って、実は「もの」と「こと」は同じ対象の異なった側面にすぎないことが明らかになった。このことを裏付ける理論が言うまでもなく「量子論」である。

 ところで、通常「量子論」は「粒子」と「波動」を融合する理論であると考えられている。しかし、「量子論」では「波動」以外にも「力」が「粒子」(この場合には「粒子」は「仮想粒子」となる)と融合する対象となると考えられている。また、「粒子」のみならず「物質」そのものが「波動」(これを「物質波」という)であるとも考えられている。

 したがって、「量子論」は「粒子」と「波動」のみならず、一般に「もの」と「こと」を融合する理論なのである。この事実は(われわれが科学に弱いせいもあって)科学者の間でも意外なほど知られていない。しかし、実は「量子論」の考え方は前節でも述べたとおり「動詞」を「名詞」に転成したり、数えれない「名詞」を数えれる形に変換するとき(これについては後で詳しく述べる)などに用いられ、また、「魂」に対する考え方もまさに「量子論」そのものなのである。このように、実は「量子論」的な考え方は日常生活でも頻繁に使われているごくありふれた考え方なのである。

「仮想粒子」⇔「仕事」をしない粒子

 ところで、量子物理学では「力」もまた一種の「粒子」が担っていると想像されている。このような粒子を「仮想粒子」という。一方、先述のとおり「波動」と関係している粒子は「実在粒子」(「光子」、「重力子」など)といい、この「実在粒子」は適当な方法があれば(光子ならば目、フィルムなど)検出可能である。しかし、「仮想粒子」は粒子としては決して検出することができない。

 この理由は、「仮想粒子」はまったくエネルギ−をもたないからである。なぜなら、「仮想粒子」は「力」を担っているが、この「力」はまったく「仕事」というものをしないからである。

 ここでいう「仕事」(これが物理学的な意味での「仕事」である)はわれわれが日常生活で言っている「仕事」とはその意味が多少異なっている。例えば、われわれ生物は重力に逆らって立っているだけでもエネルギ−(正確にはエクセルギ−)を消費する。しかし、物理学的にはいくら大きな「力」を出しても、その「力」で物体を「力」と同じ方向に動かさない限り「仕事」というものをしたことにはならない。 

 ところで、筋肉が「力」を出すときには筋肉は「収縮」するが、この「筋収縮」のしかたには「動的な筋収縮」と「静的な筋収縮」の2とおりある。このうち「動的な筋収縮」というのはわれわれ生物が運動するときに筋肉が行う収縮のしかたである。一方、「静的な筋収縮」というのは先述のとおり姿勢を保つときに筋肉が行う収縮のしかたである。この「静的な筋収縮」には筋肉は動かないで「力」を出すという特徴がある。

 したがって、「静的な筋収縮」では筋肉は「仕事」をしないにもかかわらずエネルギ−(正確にはエクセルギ−)を消費する(したがって食糧の無駄使いにつながる)。この理由は、ちょうどヘリコプタ−がまったく移動せず、空中で浮かんでいるだけでも燃料を消費することとまったく同じ方法で説明できる。

 つまり、エンジンもモ−タも筋肉もその力学的なしくみはまったく同じなのである。そして、「エンジン」、「モ−タ」(正確には「エンジン」は「モ−タ」の例としてふくまれているが)や「筋肉」は「Power」(仕事率)のみならず「Force」(力)をも発生する。しかし、「仕事率」=「力」・「速度」という関係式から「速度」が0であればいくら「力」が大きくても「仕事率」は0となる。

 したがって、「モ−タ」や「筋肉」は動かなければいくらエネルギ−を消費しても「仕事」をしたことにはならない。ところで、われわれ生物が重力に逆らって立っているときや、ヘリコプタ−が同じく重力に逆らって空中に浮かんでいるときには「筋肉」や「エンジン」で消費されたエネルギ−は熱となって逸散してゆく(したがってエネルギ−の無駄使いである)。ただし、分子や原子などミクロの世界では厳密に「エネルギ−」が保存されるので物体(ここでは、「分子」、「原子」や「素粒子」のこと)は仕事をしない限りそのエネルギ−を失うことはない。

 これを量子物理学的に表現すると、「仮想粒子」は振動数がゼロの波動に対応しているということになる。つまり、量子物理学では振動数νの波動はエネルギ−hνの粒子を伴い、その逆もなりたつ。したがって振動数ゼロの波動はエネルギ−をもたない粒子を伴い、これがいわゆる「仮想粒子」なのである。

「粒子」、「波動」は「約束ごと」にすぎない

 ところで、「量子物理学では波動は同時に粒子をも伴っている」という表現をすると、その「粒子」が本当に存在すると誤解しがちである。しかし、ここで行った「粒子」という表現は、「波動」のもつエネルギ−が離散的であることをわかりやすく表現するために用いた「比喩」にすぎないのである。

 つまり、量子物理学では「音波」や「電磁波」などを「粒子」でも「波動」でもなく、「粒子」も「波動」も超越した非常識的(「非現実的」と言いたいところだがこれが現実だから仕方なく「非常識的」と表現している)なものと考えるのである。ただし、「電磁波」などが「波動」、「粒子」のうちどちらの性質を強く表すかはそのエネルギ−によって変わってくる。一般に、「波動」と考えたときの波長の長いときには「波動」、「粒子」と考えたときの粒子1つあたりのエネルギ−が大きいときには「粒子」としての性質が強く表れてくる。

 しかも、「電磁波」などを「波動」と考えたときの「波長」と「粒子」と考えたときのエネルギ−は互いに反比例関係にある。つまり、「波動」が伝播する速度(=「粒子」が運動する速度)をvとするとν=v/λ(λ:波長)、したがってE=hv/λ(E:粒子のもつエネルギ−、h:プランク定数)となる。

 したがって、「電磁波」などは「振動数」が小さいとき(「波長」が長いとき)には「波動」(電波など)、「振動数」が大きいとき(「波長」が短いとき)には「粒子」(X線、γ線など)であると古典物理学的に近似することが多い。

 なお、紀元前から物質は「連続的」なものだという説と「離散的」なものだという説が存在し、この2説は長い間論争を起こしていたが、19世紀初頭になってドルトンが「原子説」というものを発表し、これが後にアボガドロによる「分子説」へと発展し、物質は「離散的」なものであることが明らかになってきた。

 ここで重要なことは、「分子」や「原子」もやはり約束ごとにすぎないという事実である。つまり、ドルトンやアボガドロは物質量の最小単位として「原子」や「分子」という考えを導入したのである。すなわち、ドルトンやアボガドロは物質の量が「原子」や「分子」の個数で量れるという説を唱え、これを実験や観測で確かめたのである。

 後にこの考え方がメンデルによる「遺伝子説」(これが「分子生命科学」という学問の基礎となった)、プランクによる「量子説」(これが「量子物理学」の先駆けとなった)などの考えにつながり、科学界に一大革命をもたらすのである。

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