「光」、「熱」についての太古からの考え方
「光」は太古からその正体は「粒子」であると考えられてきた。また、「熱」についてもその正体は「熱素」という元素であると考えられてきた。
このように、「光」や「熱」などの物理学的な対象を「粒子」や「元素」などの「もの」と考える考え方を「物質説」(「粒子説」もその一種)という。
ところが、後に「光」の正体は「電磁波」という一種の「波」であることがわかった(そのさらに後に「光」は「粒子」でも「波」でもあることが判明した。これを裏付ける理論が他ならぬ量子論なのである。)。また、「熱」の正体は後に「分子」のランダムな運動であることが判明したのであった。
このように、「光」や「熱」などの正体をミクロな「運動」や「波動」と考える考え方を「現象説」(「運動説」や「波動説」もその一種)という。
「物質」はわかりやすく、「現象」はわかりにくい
ところで、太古から「光」や「熱」だけでなく「音」についてもその正体は「物質」であると信じられてきた。また、ラボアジェも「熱」の正体を「物質」と考え、ニュートンでさえも「光」の正体を「粒子」と考えていた。
このように、科学者でさえもその正体が判らないものを「物質」と考える傾向がある。この理由は言うまでもなく物事を「物質」と考える方が「現象」と考えるよりも単純明快でわかりやすいからである。つまり、「物質」は目に見えるうえに数えることができる。一方、「現象」は目に見えないだけでなくどこに存在するのかさえも判らない。
つまり、「物質」は具体的、「現象」は抽象的な「存在」であることがわかる。なお、「ハ−ドウェア」、「ソフトウェア」という語の語源もここから来ている。つまり、当然のことながら「ハ−ドウェア」の「ハ−ド」とは「具体的」、「ソフトウェア」の「ソフト」とは「抽象的」という意味なのである。また、「具体的」を英語ではconcreteというが実は「コンクリート」(英語でも同じくconcrete)の語源もやはり「具体的な」→「硬い」という意味なのである。
「波動」の最大の特徴
ご存知のとおり、すべての「波動」には「媒質」という「もの」が必要である。例えば、「波」では「水」などの液体、「音波」では物質、「電磁波」では空間が媒質の役目をしている。ここで注意してもらいたいことは、「媒質」は「物質」であるとは限らないことである。つまり、「電磁波」や「重力波」はそれを伝える物質を必要とせず、代わりに「空間」がそれを伝える役目をしている。
したがって、本文では「媒質」を「物質」ではなく「もの」と表現した。当然のことながら、ここでいう「もの」には「物質」だけでなく「空間」などもふくまれている。
それだけでなく、「波動」の最大の特徴として「媒質」自身は振動するだけで決して移動しないことがあげられる。例えば、「地震波」(「音波」も大体同じ)では岩石はある振幅で「振動」するが決して「移動」することはない(岩石は固体だから当然ではあるが)。もっとも、「地震波」にはP波(縦波)とS波(横波)の2種類あり、「P波」は振動方向と伝播方向が一直線上(「振動方向」は2つあることに注意)にあり、一方「S波」とは振動方向と伝播方向が垂直になっている波動である。
すなわち、「波動」において移動するのは「エネルギー」だけであり、しかもこの「エネルギー」が「動く」方向は「媒質」が「動く」方向とは独立していることがわかる。
ただし、後で詳しく述べるとおり「量子論」によって「波動」は同時に「粒子」でもあることが明らかになっている。そのうえ「相対性理論」では「エネルギー」と「物質」は同じものであることが証明されているから話は複雑になる。(これが本書のテーマなのであるが)
「現象」が目に「見えぬ」理由
ところで、「運動」(「波動」をふくむ)そのものは目で見ることはできない。すなわち、われわれは運動している物体を見ることはできるけれど、運動している「物体」を切り離して「運動」だけを見ることはできない。
このことは、「媒体」(「記録」や「通信」に用いるもの)を切り離して「情報」だけを見ることはできないのとまったく同じ理由である。例えば、ニュ−スを伝えたり記録したりするには「紙」や「電波」などの「媒体」が必要となる。
この理由は、「情報」の正体は「もの」ではなく、「もの」がとっている「形」であることにある。例えば、「音声」を伝えるときには「電波」を音声信号で変調して「電波」という形で伝える。しかし、伝送中に他の電波の混入がない限り伝送した「電波」を再び波形が同じもとの「音波」に戻すこと(「復調」という)が可能である。つまり、この場合は「情報」とは「音波」や「電磁波」(「電波」もその一種)などの波動の「波形」のことなのである。
もう一つの例として、「遺伝子」の正体はDNA自身ではなく、DNAの配列の仕方であることがあげられる。つまり、「DNA」は遺伝情報を書き込むための「媒体」にすぎないのである。「記憶」と「脳」の関係もこれとまったく同様である。
このように、「運動」や「情報」などの「現象」は「もの」を通じてはじめてわれわれは見ることができる。したがって、われわれは「もの」は「現象」よりも普遍的な存在であると考えがちである。しかし、実際には(次節で詳しく述べるとおり)むしろ「現象」は「もの」よりもはるかに普遍的な存在なのである。
なぜなら、ご存知のとおり、「音波」にも「電磁波」にもまったく同一の「情報」をのせることができる。さらに、これと同一の内容の「情報」を紙に印刷することも、磁気ディスク、光ディスク、ICなどの記憶装置に記録することも可能である。つまり、「媒体」の物理的性質を一切問わずに同一の「情報」を記録したり伝送することができるのである。
このように、「情報」は「媒体」である「もの」の物理的性質とは一切関係なく超然と存在できる。この理由は、言うまでもなく「情報」などの「現象」は物理的な「存在」ではなく論理的な「存在」であるからである。