「魂」と「遺伝子」との違い

 「魂」と同じく生命を担っている「もの(?)」として「遺伝子」がある。この「遺伝子」なるものは「魂」とは大きく異なる性質をもっている。

 まず、「遺伝子」は自分と同じものを作り、増殖することがあげられる。ただし、「遺伝子」はその反対に死滅することもある。一方、「魂」は新たに発生することも繁殖することも消滅することもないと考えられている。また、生物には同じ遺伝子を持った者(血縁者)が存在するが、「魂」については「遺伝子」における「血縁者」に当たるものは存在しないと考えられている。

 こうした「遺伝子」と「魂」との性質の違いは、「魂」が物理学的な存在であると考えられているところにある。すなわち、物理量はエントロピ−以外はすべて保存される。したがって、素粒子は他の素粒子に変わらない限り絶対に消滅することがない。ところで、「魂」は「素粒子」の一種であると考えられている。また、「魂」は他のものに変化することが絶対に起こらないとも考えられている。したがって、「魂」は発生することも消滅することも絶対に起こらないと信じられてきた。

 一方、「遺伝子」は言うまでもなく「ソフトウェア」の一種である。ところで、「ソフトウェア」の最大の特徴として複製ができることと、その逆に、消去もできることがあげられる。この理由はもちろん「ソフトウェア」の正体が分子や原子の組み合わせであって、実体を持たないことにある。

 ただし、「遺伝子」と「魂」はこのように互いに大きく異なる性質を持ちながらも、生物体内では互いに協調しあって生命を担っている。なぜなら、全ての細胞、組織、器官等が互いに高度に協調しあってはじめて生物が生きてゆけるのであり、「魂」も「遺伝子」も決して例外ではないからである。

「文化」の遺伝子…ミ−ム

 ところで、「遺伝子」のように自分と同じものを作れるものは「自己複製子」と呼ばれている。しかも、この「自己複製子」なるもの(?)は「遺伝子」以外にもちゃんと存在する。これが「ミ−ム」なるものである。この「ミ−ム」とは、「宗教」、「言語」など「文化」の遺伝を担うもの(?)であり、いわば「生物」における「遺伝子」に相当するものである。

 ところで、「宗教」や「言語」などの「文化」は生物と同じように繁殖、遺伝、変異、進化などを起こすが、そのしくみは生物の「遺伝」や「進化」などとは多少異なっている。つまり、「宗教」や「言語」などは異種のものが混じり合って雑種をつくることが可能であるが、「生物」では「遺伝」は「遺伝子」という離散的な単位で起こり、決して「遺伝子」が他の遺伝子と混じり合うことが出来ないのである(このことについては次章で詳しく述べる)。また、「生物」では同じ種族(「ヒト」ならば「ヒト」)以外では共通の子供を作れないので、異なる種族(例えば「ヒト」と「ウシ」)の遺伝子が一緒になることができないのである。

 しかし、こうした細かいところは別にすると「文化」の「遺伝」や「進化」などは「生物」の「遺伝」や「進化」にきわめてよく似ている。このことは考えてみれば当然のことなのである。ここで”「文化」や「社会」は生命現象の一種に過ぎない”という文章を思い出してもらいたい。つまり、「文化」を作りだしたのは言うまでもなく「生物」(それも知的生物)である。したがって、「文化」は「生命」そのものではないが、その性質がきわめてその産み(?)の親である「生物」によく似たもの(「擬似生命」という)であり、また、「ミ−ム」は本物の遺伝子ではないが、その振る舞いが遺伝子によく似ている(したがって「擬似遺伝子」である)。なお、ミ−ムは「文化遺伝子」とも呼ばれている。

 また、「社会」というものは「文化」やその産みの親である知的生物(宇宙基準では、「ヒト」が知的生物かどうかは疑問である)が存在するための言わば「環境」の一種なのである。しかし、皮肉にも自称「知的生物」を名乗る「ヒト」という生物は自分が作り上げた「社会」という「環境」を「戦争」や「犯罪」なる方法で自ら破壊しているのである(そのとき同時に「自然環境」も破壊している)。なお、このときには「知的生物」を名乗る「ヒト」という「生物」が考え出した「文化」やさらには「ヒト」そのものも破壊されている(「ヒト」は「殺されている」と表現するが)。このような生物(正確にはその遺伝子)の「自殺行為」の進化する理由については5章で詳しく述べる。

「企業」にも血縁関係が存在する

 「会社」や「企業」について、「親会社」、「子会社」、「孫会社」、「兄弟会社」などの表現がよく用いられている。この比喩的な用語の語源は、言うまでもなく「作った者」⇔「親」、「作られたもの」⇔「子」という関係である。しかし、これらの「親会社」や「子会社」などの用語にはもっと深い意味が隠されている。

 つまり、株式会社の場合、企業Aが企業Bの株式を持っているときには「企業Aは企業Bの親会社である」または「企業Bは企業Aの子会社である」と定義されている。そして、「生物」における「遺伝子」の役目を果たしているのがほかならぬ「株主」なのである。すなわち、ある会社の「株主」はその会社に対して命令することができる。そしてこの「株主」は他の「企業」であるケ−スと「本物」の「生物」であるケ−スがある。そして前者のケ−スがいわゆる「親会社」なのである。もっとも、実際には「子会社」は本当に「親会社」が作った会社であるケースが多いのである。

 ところで、「遺伝子」の役割もやはりその宿主である生物に対して命令することなのである。したがって、真に「利己的」なものは「個体」(動物の場合)ではなく「遺伝子」なのである。また、「遺伝子」は常に自分の仲間を増やそうとたくらんでおり、「血縁者」には自分と同じ遺伝子が存在しているので、生物は「遺伝子」によって血縁者を守るように仕向けられているのである。

 なお、生物と同じくある会社の「子会社」のそのまた「子会社」を「孫会社」、ある会社の子会社同志を「兄弟会社」と呼ぶ。そしてそれら「親会社」、「子会社」、「兄弟会社」など系列関係にある会社は「株式」やそれを保有する「株主」によって利害関係で結ばれている。

 「企業」のこのような関係は、「生物」の血縁関係とまったく同じ類のものである。なお、「企業」はよく極めて「利己的」かつ「排他的」だと言われ、「エコノミックアニマル」とまで呼ばれるが、「企業」に命令している大元はもちろん「本物」の「生物」だという事実を忘れてはならない。

 つまり、「利己的」かつ「排他的」なのは「本家」たるわれわれ「生物」の宿命(この理由はもちろん「生物」が遺伝子に支配されていることにある)なのである。したがって「企業」は間接的に「遺伝子」に「支配」されていることになる。したがって「企業」は「擬似生物」とも呼ばれ、「エコノミックアニマル」という言葉がこのことをよく表している。

 なお、このように極めて厳しい「弱肉強食」の戦場であるわれわれ「生物」やそれが作り出した「企業」という擬似生物の世界というものは、永久不滅の存在である「魂」の世界とはまったく相容れない(その「魂」もまた「生物」に対して命令しているのだからある意味ではこの表現は矛盾しているが)世界なのである。

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