出発点ですでに欠陥…「自然」と「非自然」への分類
われわれ人類は太古からすべての物事を「自然」と「非自然」(「文化」や「社会」などを指す)に分けてきた。最近ようやくわれわれは物事はこのような分類のしかたが不可能であることを悟りはじめてきた。しかし、よく考えてみれば(本書を読んだ者にとっては当然のことではあるが)万物の「自然」と「非自然」への分類はその出発点ですでに「崩壊」する要素をはらんでいたのである。
この「要素」とは、言うまでもなく「生命」がきわめて広い宇宙の中でも(われわれが知りうる限り)「地球」というごく小さな天体の、それもこの「地球」の中でもごく薄い「表面」にしか存在せず、そのうえ「生物」が現有の科学や技術をもってしても決してこれと同じ構造や機能をもつものが作れないほど「複雑」かつ「特異」な構造をしているにもかかわらず、「生命」を誤って「自然」というカテゴリーに分類してしまったことである。
そのうえ、「自然」に対立するものと考えられている「文化」や「社会」は生命現象の一種にすぎず、したがって絶対に「文化」や「社会」は「生命」と切り離して考えることができないのである。さらには、「文化」にも生物の遺伝ときわめてよく似た「遺伝」現象が存在することが発見され、これを表現する手段として考え出された「ミーム」たるものが誤って「生命」に関することが「自然」であるという考えに最後のとどめを刺したのである。
それだけではなく、実は「自然」の代表的なものであると考えられている「物理」(ここでは、物理現象など物質に関することを指す)と「数理」や「論理」(正確に言うと、「数理」は「論理」の一種である)との距離は「物理」と「生理」(生命に関することを指す)との距離よりもはるかに大きいのである。なぜなら、「物質科学」も「生命科学」も「物質」や「生命」というこの世に実在するものを対象とする学問であり、したがってありのままの姿の「物質」や「生命」を考えることしか許されないからである。
一方、「数学」や「論理学」は他の学問と異なり、その学問を研究するのにまったく実験や観測を必要としないという非常に大きな特徴がある。なぜなら、「数学」は「数」、「論理学」は「意味」というすべての物事に共通する概念を扱うからである。このように「数」や「意味」などのすべての物事に共通な抽象的なものを扱う学問を「形式科学」と呼び、それに対して「物質」や「生命」など実在するものを扱う学問を「経験科学」と呼ぶ。そして、「数学」をふくむ「論理学」以外のすべての学問はこの「経験科学」に分類されるのである。
したがって、「自然科学」と「社会科学」の間の距離など「形式科学」と「経験科学」との距離に比べればほんの微々たるものである。したがって、学問を「自然科学」と「非自然科学(社会科学など)」に分類するやり方は(「生命科学」を「自然科学」に分類する、しないに関わらず)その出発点から間違っているのである。
すべての学問は「理系化」する
「社会科学」も「自然科学」とまったく同じ法則に従う。この事実は現在ではあたりまえのことではあるが、19世紀以前の人々は社会科学は自然科学とは異なる法則に従っていると考えていたのである。したがって、社会現象を数量化して考える学問は19世紀の始めに「経済学」なる学問が誕生するまではこの世にまったく存在していなかった。しかし、「経済学」の誕生以降は次第に社会現象も物理現象と同じ方法で考えるようになり、「エントロピー」なる物理量およびこの「エントロピー」が保存されない物理量であるという事実の発見がこの考えを後押ししたのである。そして、現在では「経済学」は「社会科学」の中でも中核を占める学問にまで成長している。
他の例では、「心理学」は太古から存在していた学問であるが、長い間この「心理学」が対象としている「心」は「生命」とは独立した存在であると考えられてきた。したがって、「心理学」は「生物科学」や「生命科学」とはまったく交流がなく、したがってそれらの学問とは別々に発展してきた。しかし、20世紀に入ると「心」は生命現象の一種にすぎないことが明らかとなり、したがって現在では「心理学」は「生物科学」をふくむ「生命科学」の立場から研究されるようになってきた。また、「心」は生物に備わっている一種の情報処理機能であることも同じく20世紀になって明らかとなり、したがって現在では「心理学」は「情報科学」の立場からも研究されているのである。
このように最近になって「生命科学」や「社会科学」も自然科学(特に物理学)の思考方法を取り入れ始めたのである。したがって学問を「文系」と「理系」に分類することはまったく不可能になった。というよりもすべての学問を「理系」に分類しなければならなくなったのである。
この事実は単に「科学」と言えば「自然科学」を指すことからも明らかであろう。つまり、「自然科学」は太古から存在していたが、一方「社会科学」のほうは「自然科学」よりもはるかに後になって誕生したのである。なぜなら、社会現象そのものはもちろん太古から存在していたが、それが長い間科学では扱われなかったからである。したがって「自然科学」以外の「科学」が一切存在しない時代が長く続いたのである。したがって、「科学」と名がつくものは実はすべて「理系」の学問なのである。
「学際化」の「軸」…論理学
それどころか、学問の「理系化」は実は「学際化」と同義語なのである。この事実は、最も「理系的」な学問と考えられている「数学」が同時に最も「学際的」な学問であることが証明しているのである。つまり、「数学」なる学問は物事の考え方を扱う学問(したがって、「数学」は「論理学」の一分野である)であるが、これらの物事の考え方たるものは言うまでもなくすべての物事に共通なのである。したがって、すべての学問は「論理学」(その中でも特に数学)を基礎理論としているのである。
このように、「学際化」と言えどもそこには必ず「軸」となるものが存在するのである。言うまでもなくこの「軸」となる学問がものの見方、考え方を扱う学問、すなわち「論理学」なのである。なぜなら、「学際化」たる現象はすなわち異なる対象を共通の方法で理解していくことであり、したがってそれらの学問の中心となってそれらを結びつける「軸」となる学問を必要とするからである。
そして、「量子論」は「もの」と「こと」という本来まったく相容れないものを結びつける学問なのである。したがって、(2章で述べるとおり)「量子論」は「名詞」と「動詞」を結びつける理論でもあり、したがってこの「量子論」は言うまでもなく「文法学」(この学問は「論理学」の一分野である)を基礎理論としているのである。
したがって、「もの」と「こと」を統一的に考えるという「量子論」の考え方は「遺伝」という本来「現象」であるものに対して「遺伝子」という「もの」的な考えを持ちこむという生命科学の考え方にもきわめてよく似ているのである。また、「量子論」は(このことについては2章で詳しく述べる)「万有引力」などの「弱肉強食」的な性質をもつ「力」に対抗し、安定した分子や原子の存在を可能にするというきわめて「人間的」(この言葉の意味は「生物の生存に適している」であり、したがってわれわれの価値観が入っていることに注目してほしい)な性質も持っているのである。
このように、「量子物理学」(言うまでもなくこの学問は「量子論」の一種である)は物事を「確率」で記述し、これをもっと具体的に言うと「原子」や「素粒子」の性質は「確率」を用いなければ表せないというふうに、「原子」などのミクロな対象をまるで生物のように扱うという、「生命科学」の考え方を積極的に取り入れた物理学なのである。
このように、「量子論」という学問はきわめて「学際的」な性質をもった学問なのであるが、この理由は言うまでもなく「量子論」が「もの」や「こと」というわれわれのものの見方、考え方を扱う学問だからである。そして、われわれは実は太古からこの「量子論」の方法で「生命」を考えてきたのである。
つまり、太古から「生物」には「肉体」と「精神」という2つのものが独立して存在し、このうち「肉体」はいつか必ず死ぬが「精神」は永久に存在し続け、したがって「肉体」が死んだ後はまた別の「肉体」に宿ると信じられてきたのである。そして、この「精神」を「もの」に例えたのが他ならぬ「魂」なのである。このように、太古からの「生命」や「魂」に対するわれわれの考え方は信じがたいほど現代の「量子物理学」の考え方と一致しているのである。つまり(このことについて詳しくは3章で述べる)、「もの」と「こと」の二面性たるものは「肉体」と「精神」、「精神」と「魂」さらには「生命」(言うまでもないことではあるが、「精神」は「生命」の一部である)と「魂」などのように「量子物理学」が誕生するずっと以前から考えられてきたのである。