「生物」は機能体である

 最近、「生物」に替わって「生命体」なる語が頻繁に使われている。例えば、「地球外生命体」などがその語が使われている例である。このように、「生命体」は「生物」とまったく同義語であるけれども、この「生命体」という表現は「生物」のある機能を強調するときに用いられる。この「ある機能」というのはもちろん「生命」のことである。 

 このように、「生物」は「機械」や「道具」と同じく「機能体」(「生物」、「機械」、「道具」など、「機能」をもつ物体の総称)の一種なのである。また、「ラプラスの魔」や「マクスウェルの魔」などの超能力者(実在しないが)の正体ももちろん「機能体」(「生物」でも「無生物」でも良い)であると考えられている。

 「生命」と「生物」との関係は、コンピュータにおける「ソフトウェア」と「ハードウェア」との関係に相当すると通常考えられている。つまり、「ソフトウェア」というものは「情報」や「機能」、「ハードウェア」はそれを担う「機械」や「道具」などの物体なのである。つまり、「ハードウェア」は文字通り実体のある存在(「もの」)、「ソフトウェア」は同じく文字通り実体のない存在(「こと」)なのである。

 しかし、昔から「生命」の正体は「魂」という素粒子(当時はそんな表現をしなかったが、物理学的に表現するとこうなる)であると考えられてきた。一方では、「生物」は「機械」の一種であり、したがって「生命」は「機能」の一種に過ぎないとも考えられてきた。

 なお、「魂」が担っているのは「生命」よりもむしろ「意志」あるいは「精神」であると表現したほうがより正確なのであるが、「意志」や「精神」は「生命」の一部であることがほぼ明らかになっているので本書では「魂」が担っているものを表現するにはより一般的な呼称である「生命」に統一する。

「魂」についての考え方は量子論と一致

 上記の2つの考え方はちょうど光における「粒子説」と「波動説」に対応している。すなわち「光」は古典物理学では「電磁波」、量子物理学では「電磁波」であると同時に「光子」でもあると考えられている。つまり「光」を「こと」と考えるのが古典物理学、それと同時に「もの」でもあるとも考えるのが量子物理学なのである。

 つまり、量子論(量子力学や量子物理学の考え方を物理学以外の学問にも拡張したもの)というのは物事を「もの」であると同時に「こと」でもあると考えることである。これをもっと正確に言えば、物事を「もの」と「こと」が融合したもの、さらに正確に言えば「もの」、「こと」という概念を超越したものであると考えることなのである。

 このことから、太古からの「魂」についての考え方は量子力学の考え方とまったく一致していることがわかる。実際、量子論の考え方は物理学以外でも頻繁に使われている。例えば、遺伝は離散的な現象であるが、この「遺伝」という現象は(メンデルが発見したことだが)「遺伝子」という仮想的な粒子が担っていると考えられている。また、言語学では「動詞」や「形容詞」から「名詞」に転成すること、あるいはその逆過程について習うが、このことなどまさに「もの」(名詞)と「こと」(動詞、形容詞)を融合することである「量子論」の考え方そのものなのである。

 また、「生物」が「無生物」と大きく異なる点として「生物」はそれを構成している物質が絶えず入れ替わっていることがあげられる。これを言いかえると、「無生物」は「閉鎖系」、「生物」は「解放系」であるという表現になる。そして、「生物」を構成している物質が入れ替わっている実例として「代謝」(食料として摂取したり、身体を構成している物質が分解されてできる栄養分がエネルギー源として消費されること)や「同化」(摂取した栄養分が消化、吸収、再合成されて身体をつくる物質になること)などがあげられる。

 しかし、このように典型的な「解放系」である「生物」にもその生物が死ぬまで入れ替わらないものが2つ存在すると考えられている。これがいわゆる「魂」と「遺伝子」なのである。そのうち「遺伝子」については現在ではその存在はもちろん、性質から機能にいたるまでほぼ完全に解明されている。しかし、一方「魂」のほうは「遺伝子」よりもはるかに以前からその存在が考えられていたにもかかわらず、現在でも未だにその性質はもちろん、存在すら証明されていないのである。

 しかし、先述のとおり太古からの「魂」についての学説は信じがたいほど現在の「量子物理学」の考え方に似ているのである。このことはまぎれもない事実である。そして、「ことわざ」などの太古からの学説はそのほとんどが現在になって科学的な裏付けがなされているのである。「魂」についてもいつの日かその存在が明らかになってもらいたいものである。

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