「法則」を見て気付くこと
ご存知の通り、力と運動の関係を表す法則には「慣性の法則」(物体は力が働かないときには等速度直線運動をする)と「運動の法則」(物体が力を受けたときにはその力に比例し、その物体の質量に反比例した加速度で運動する。なお、すぐ後で述べるとおり、この用語にはこの意味以外に「ニュートンの運動の法則」という意味もあり、もちろんこの法則もこれを構成するメンバーとなっている)がある。しかし、よく考えると「慣性の法則」は「運動の法則」の例としてこの法則にふくまれているのである。
すなわち、「運動の法則」では加速度はa=F/mなる式で表されるが、この式において力(F)がゼロならば加速度(a)もゼロ、したがってこのことは物体は力が働かないときには速度が一定の運動をすることを意味し、したがってこの事実は「慣性の法則」で述べていることとまったく一致している。すなわち、「慣性の法則」は「運動の法則」において力がゼロである場合を指しているのであり、したがって「運動の法則」の例の一つにすぎないのである。
このように、ある公式、定理や法則の特別な例となっていてかつ使用頻度の高い公式、定理や法則のことを「系」と呼ぶ。たとえば、「因数定理」(関数f(a)=0ならばf(x)は(x-a)で割り切れる。また、その逆も成り立つ。)は「剰余の定理」(f(x)を(x-a)で割った余りはf(a)である)においてf(a)=0である場合における例となっている。したがって「因数定理」は「剰余の定理」の「系」なのである。このことから「慣性の法則」は「運動の法則」の「系」であることが直ちにわかるのである。なお、ある「定理」や「法則」の「系」である「定理」や「法則」を表わすにはまず元となる「定理」や「法則」を表記し、その後に「特に…の場合には…となる」と表記するのが適切な表記方法とされている。しかし(このことについてはすぐ後で詳しく述べる)、学校教育ではこのルールが守られていない(もちろん「運動の法則」と「慣性の法則」もこれに該当している)ことが実に多いのである。
なお、「定理」は「数学」などの形式科学、「法則」は「物理学」などの経験科学というふうに使われる分野が違うだけでもちろんそれらの意味はほとんど同じである。また、「法則」が「定理」と違うところは例えば物理法則ならば空間が3次元であることを前提としている、というふうに「法則」は必ず前提条件を必要としているが、「定理」はこうした前提条件をまったく必要としない(これが「法則」は「経験科学」、「定理」は「形式科学」で用いられている理由である)ことである。
一方を他方の例としてふくむ場合
「法則」や「定理」に限らず、世間には「AとBは…」というふうにAとBを並べて書いてある場合、実は「A」は「B」の例として「B」にふくまれている(もちろんその逆のケースも多数存在する)、というケースが実に多いのである。
たとえば、生命現象を対象とする学問には「生物科学」と「生命科学」があるが、先述のとおり実は「生物科学」は「生命科学」の一分野なのである。この理由は、「生命」を定義してはじめて「生物」なるものが定義できるからである。つまり、言うまでもなく「生物」は「生命」という機能を持った物体、というふうに定義されているのである。したがって、「生命」は「生物」よりも一般的な概念なのであり、「心」や「精神」は「生物」の一部ではないけれども「生命」の一部であることがこれを証明している。たとえば、「心理学」は「生物科学」にはふくまれていないが「生命科学」の一分野として「生命科学」にはふくまれているのである。
また、このような「生物」に代表される「機能体」を抽象化したものとして「ラプラスの魔」や「マクスウェルの魔」が考えられているが、同じく1章で述べたとおり「ラプラスの魔」であることは「マクスウェルの魔」であるための必要条件なのである。この理由は、「制御」のためにはその手段として「計測」が必要不可欠だからである(このことについては「制御工学」で詳しく習う)。したがって、「ラプラスの魔」の機能は「マクスウェルの魔」の機能の一部なのであり、したがってすべての「マクスウェルの魔」は「ラプラスの魔」でもあることになる。
決して「量」と「質」とは分けれない
みなさんもよく知っている(このことに関しては超縦割りの学校教育が大きな影響(決して良い影響ではないが)を及ぼしている)とおり「物質」を対象とする学問は大きく「物理学」と「化学」とに分けられている。しかし、正確にはこの「化学」なる学問は「物性学」という学問の一分野にすぎないのである。なぜなら、「化学」ではその名の通り物質の変化や反応を主として扱うが、言うまでもなくこれらのことは物質の一種の質的な特徴なのである。したがって、正確には物質を扱う学問は「物理学」と「物性学」(もちろん「化学」もこれにふくまれている)とに分かれている(この両者を総称して「物質科学」と呼ぶこともある)、という表現が正しいのである。
したがって、上記のことから「物理学」は「物質」の「量的」な面を扱う学問、一方「物性学」は「物質」の「質的」な面を扱う学問ということができる。しかし、物質の「量」的な特徴と「質」的な特徴は決して独立しているわけではなく互いに密接に関係しあっているのである。たとえば、物質の性質は巨視的に(生物以上のスケールで)考えると化学的性質なのであるが、微視的に(分子や原子のスケールで)考えると物理的性質となるのである。つまり、物質の化学的性質たるものはその物質を構成している原子の原子核の電荷や電子の個数で決まるのであるが、それらはいずれも原子の物理的性質だからである。したがって、当然のことながら「熱力学」や「原子物理学」などのように「物理学」と「物性学」の両方に属している分野も多数存在しているのである。
また、生物にも体の大きさを示す「体格」と健康さを示す「体質」という2種類のパラメータが存在するが、言うまでもなくこのうち「体格」は生物の「量」的な特徴、一方「体質」は生物の「質」的な特徴であるということができる。しかし、当然ではあるが厳密には「体格」と「体質」を区別することは不可能なのである。すなわち、ご存知のとおり「体質」は身体の大きさに対する各栄養素(ここでは主にビタミン、ミネラルを指す)の摂取量と密接に関係しており、したがって「体質」は「栄養素」のレベルではその「量」に帰着させて考えることができるのである。
このように、「質」なるものの正体は複数の異なった「量」の比であるか、またはそれを構成しているもの(物質では原子や分子、生物では器官や細胞のこと)の大きさ(あたりまえではあるが、「大きさ」は「量」の一種である)なのである。したがって、当然のことながら「質」は「量」に帰着させて考えることができるのである。このことを実証しているのが、「物理化学」や「物性物理学」などの「物理学」と「物性学」が融合した学問なのである。