4つ(?)の「力」は統一できる

 先述のとおり、物質界には4種類(?)の基本的な「力」が存在すると考えられている。ただし、後述のとおり「物質界には『力』は4種類存在する」という固定観念をもつのは正しくない。なぜなら、現在ではこれらの4種類の「力」(「電磁気力」、「強い力」、「弱い力」、「万有重力」のこと)は「万有重力」を除けば同一の「力」の異なる側面にすぎないことが明らかになっているからである。

 このことを具体的に言うと、まず「弱い力」は「電磁気力」と統一できることが明らかとなり、次いでこの2つの「力」はさらに「強い力」と統一できること(これらの3種類の「力」を統一的に考える理論を「大統一理論」と呼ぶ)が現在までに明らかとなっている。さらには、現在では「万有重力」をこれらの3つの「力」と統一する試み(「超統一理論」と呼ぶ)も行われているのである。

 このように、(物理学に限らず)「科学」(自然科学、社会科学を問わず)にはなるべく物事を統一的に解釈しようとする「本性」が備わっているのである。例えば、「力」についての他の例ではそれまで全く別のものと考えられてきた「電気力」と「磁気力」が実は「電磁気力」という同一の「力」の異なる側面にすぎないことが明らかとなったのである。つまり、鉄などの磁性体に存在している「磁気」たるものの正体は磁性体をつくっている原子にある電子が自転や公転するときに生じる「磁界」なのである。このことを一般的に言うと、電荷を帯びた粒子が運動するときには磁界が生じる(したがって、電流でも磁界が生じる)ことがアンペールによって発見され、このことが電磁気学を力学と並ぶ物理学の2大分野にまで成長させるきっかけとなったのである。

物質界は「箇条書き」できない

 「相対性理論」と「量子物理学」は互いにそれらの思考方法が非常によく似ているのである(このことについては2章でくわしく述べる)。すなわち、「相対性理論」も「量子物理学」も「時間」と「空間」、「物質」と「エネルギー」、「粒子」と「波動」などそれまでまったく別個のものであると考えられてきたものを同一の「ものごと」(「もの」と「こと」を統合するのが量子物理学の役目なのでこの表現をした)の異なった側面にすぎないと考える理論なのである。したがって、「相対性理論」や「量子物理学」は複数の物理法則を統合して一つにするという役目を持っているのである。

 たとえば、「相対性理論」では物質はその質量に光速を2回かけただけのエネルギーをもつことが証明されている。したがって、「物質」と「エネルギー」は同一の「もの」なのでこれらの量を「質量」、「エネルギー」どちらの単位でも表わすことが可能である。したがって、「質量」と「エネルギー」のうち片方の単位があればもう片方の単位は必要ないのである。

 また、この理論は「質量保存の法則」が「エネルギー保存の法則」の例としてこの法則にふくまれていることをも表しているのである。したがって、「物質」は「エネルギー」の一形態にすぎないので「エネルギー保存の法則」があれば「質量保存の法則」は不要である。それどころか、この「エネルギー保存の法則」もが実は「運動量保存の法則」の例としてふくまれているのである。

 すなわち、「相対性理論」では「エネルギー」(=「質量」)は「運動量」の時間方向の成分なのである。これをもっと正確に言うと、「エネルギー」はその量を光速で割り、それにj(j=√-1)をかけただけの「運動量」の時間方向への成分をもっているのである。これをさらにつきつめると、ご存知のとおり「運動量」はさらにx、y、zという3つの成分に分けられるのである。したがって、「運動量保存の法則」は実は「運動量のx成分、(y成分、z成分)保存の法則」という3つの法則から成っているのである。

 それなのに、われわれはこの3つの法則を総称して「運動量保存の法則」と呼んでいる。と言うよりもこの「運動量保存の法則」がさらに3つの法則に分けられることは世間では意外に知られていないのである。この理由は、言うまでもなくわれわれが住んでいるこの3次元空間が等方(空間がどの方向についても同一の性質を持っていること。「球対称」とほぼ同じ意味である)だからである。したがって、運動量のx成分が保存されることがわかれば空間の等方性からy成分、z成分についても同じく保存されることが直ちにわかるので、この3つの法則をまとめて「運動量保存の法則」と呼んだほうがはるかに労力の節約になるからである。

 このように、物質界にはすべての物事が互いに関係しあっているので箇条書きできないという性質が存在する。そして、「物質界」のみならず「自然」(正確には「社会」もそうである)の箇条書きできないという好ましくない性質は特に学校教育においては大問題となっているのである。それどころか、こうした自然界の好ましくない性質に対する学校教育の対応のまずさ(それについてはすぐ後で詳しく述べる)が学校教育が批判を受ける(本書でもあちこちで学校教育を批判している)最大の原因となっているのである。

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