「縦割り学校教育」の実態

 前節で述べたように、「生命科学」、「社会科学」、「工学」の3学問は互いに密接な関係にある。それどころか、先述のとおり、「社会科学」は「生命科学」の一分野であり、そのうえ「生命科学」は「工学」の一分野であるとも考えられる。

 ところが、超縦割りの学校教育ではこれらの3学問は互いにまったく別の分野の学問として教えられている。つまり、「生命科学」は「自然科学」の一分野、「工学」は「応用自然科学」、そして「社会科学」はそのまま「社会科学」として教えられている。

 その結果、「化学」にしがみつき、「情報科学」や「情報工学」とほとんど交流のない生命科学、物事を量的に解明する学問でありながら「数学」や「物理学」の考え方の導入をかたくなに拒む経済学、人間以外の生物にも「文化」や「社会」が存在することをまったく認めない社会科学、社会情勢をまったく顧みず、社会に対してどのように貢献するかを一切考えない工学などが生まれた。さらには、「言語」はまぎれもなく情報を伝達する手段の一つでありながら「情報科学」や「情報工学」、さらにはその基となっている「論理学」や「数学」とまったく交流のない言語学でさえも学校教育は生み出したのである。

 それどころか、同じ「理科」に分類されている「物理学」と「化学」ですらそれぞれまったく別々に教えられ、両者の間の交流はまったくないのである。しかし、巨視的に見れば「化学現象」であるものも微視的に(原子や分子のレベルで)見れば「物理現象」になる。したがって、「化学現象」も「物理現象」の一種であると考えれるのである。

 ところが、学校教育ではご存知のとおり「物理学」と「化学」はまったく別の科目として扱われている。その結果、例えば「物理学」と「化学」にまたがる分野(例えば原子核)を「物理学」でも「化学」で教えるという実に効率の悪い教育になっているのである。

「多次元分類」の必要性

 ところで、実は「月」は「惑星」の一種なのである。もちろんこの事実は一般にはほとんど知られていない。なぜなら、学校教育では「惑星」のまわりを回っている天体が「衛星」であり、地球に対する衛星が「月」であると教えているからである。

 しかし、「惑星」も「衛星」も自分で光らないというところではまったく同じなのである。したがって、「惑星」と「衛星」の相違はただ一つ、つまり他の惑星とは独立に太陽のまわりを回っているか、それとも他の惑星のまわりをまわりながら太陽のまわりを回っているか、それだけである。

 しかも、「惑星」もさらに小さく岩石でできた「地球型惑星」とその反対に大きくガスでできた「木星型惑星」に分けられ、さらに「地球型惑星」や「木星型惑星」など比較的大きい「大惑星」とそれ以外の「小惑星」に分けられるのである。

 したがって、「衛星」も「惑星」と同じく大きさと化学組成で分類するのが当然なのである。ここで「月」の場合は地球と同じく岩石でできているので「地球型惑星」に分類される。したがって、もう明らかなように「衛星」は「惑星」の一種なのである。つまり、「惑星」と「恒星」との違いは他の天体のまわりを回っているかどうかの違いではなく、自分でエネルギ−を出しているかどうかの違いなのである。つまり、(このことは意外と知られていないことだが)「衛星」かどうかの違いは他の天体の付属天体であるかどうかの違いであって、「惑星」と「恒星」との違いとは次元の異なる違いなのである。

 このように、物事を複数の基準で分けることを「多次元分類」と呼ぶ。たとえば、「鉱業」は農業と同じく天然を対象にした採取産業であり、かつ工業と同じく無生物を対象にした非生物系産業なので、「非生物系採取産業」に分類される。

 ところで、超縦割りの学校教育はこの「多次元分類」をもっとも苦手としている。たとえば、先述の天体の分類についても学校教育では「天体は恒星、惑星、衛星の3つに分けられる」と間違って教えられている。

 その他の例では、学校教育では「化学」は無機化学、有機化学、物理化学などに分けられている。しかし実際には「物理化学」はさらに「無機物理化学」と「有機物理化学」に分けられる。このように、「物理科学」と「有機化学」や「無機化学」とは決して対立するものではなく、「有機化学」や「無機化学」と「物理科学」の共通の分野として「無機物理化学」や「有機物理化学」が存在するのである。

 もう一つの例として、先述のとおり「歴史」や「地理」は学校教育では「社会科」で教えられている。しかし、「歴史」、「地理」は言うまでもなくそれぞれこの世の出来事を「時間軸」、「空間軸」に沿って分析してゆく学問なのである。当然のことながら、ここで言う「出来事」には生命が関係する「出来事」と関係しない「出来事」の両方がふくまれる。したがって、「歴史」や「地理」は「理科」に属しても「社会科」に属しても決しておかしくない学問なのである。というよりも、「理科」、「社会科」にまたがった、もっと正確には「理科」、「社会科」を超越した学問なのである。

 したがって、以上より「歴史」や「地理」は「理科」でも「社会科」でも教えられなければならない学問であることが一目瞭然である。しかし、超縦割りの学校教育にこんな器用なことができるわけがないのは先述のことから明らかであろう。

 このような学校教育のやり方では物事をいろいろな見方で考える頭脳など育つはずがない。そして、このことがまさに「魂」が主役になろうとしている「学際化社会」では大きな足枷になっているのである。

「学際化」の主役・・・「魂」

 「魂」に関する学問は実に学際的な性格をもっている。すなわち、「魂」が関係する学問にはまず「魂」と密接な関係がある「生命」を扱う「生命科学」があげられる。さらに、「魂」の性質を解明する「量子論」があげられる。さらに、この「量子論」を分野としてふくんでいる「物理学」もあげられる。さらには、「量子論」と密接なつながりがある「宇宙論」もあげられる。

 このように「魂」を扱う学問には学際的な性格があるので、「魂」について考えることはいろいろな副産物をもたらすのである。

 たとえば、「量子論」を学習しているとどうしてわれわれ生物が平等でなければならないのかがよく分かる。この理由は、同じ種類の原子や分子であれば原子や分子の半径や質量が完全に等しいからである。そしてこの原因は量子論に出てくるプランク定数にある。したがって、原子や分子などミクロの世界での驚くほどの平等性の原因はやはり量子論がもたらす不連続性にある。

 また、遺伝のしくみがディジタルであることも「量子論」を学習しているとよくわかる。つまり、遺伝の原因は「遺伝子」という離散的なものであるが、われわれの身のまわりにある物質もすべて原子、分子や素粒子という離散的なものでできている。

 つまり、ディジタルなものは人工物だけに存在するのではなく、ちゃんと物理学の世界にも存在する。そして、このように物質界が離散的な構造をしている原因は言うまでもなく量子論がディジタルな性格をもつからである。

 したがって、「量子論」を理解していると遺伝のしくみがディジタルであることも全く奇妙に感じられない。それどころがむしろディジタルなことのほうが当然に感じられる。

 また、「意味」は言語の存在とは一切関係なく超然と存在することも「魂」について研究していると明らかになる。つまり、この宇宙のどこかに生命体が存在しているから「生きる」という意味が存在しているのであって、この意味の存在は「生きる」という単語の存在とは一切関係がないのである。

 また、別の例ではわれわれは太陽が「熱い」ことや宇宙が「広い」ということ、さらにはこの宇宙ができたときには「熱かった」ことを知っているが、このことは宇宙ができた(「ビッグバン」と呼ぶ)ときから「熱い」や「広い」という「意味」(「単語」ではない)が存在していたと考える以外に説明不可能なのである。 

 このように、「生命」を決して中心に考えないきわめて客観的な考え方こそが、物事を範疇にとらわれずに考えることのできる真の意味での「学際的」な考え方なのである。

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