「縦割り学校教育」の弊害

 前述のとおり、生命科学は物理学や化学よりもはるかに社会科学に似ている。それなのに生命科学(学校教育では「生物学」という名称になっている)は、学校教育では「物理学」や「化学」と同じく「理科」の一分野として扱われている。それどころか、生命科学は化学との交流は盛んであるが、一方で同じく「理科」の一分野である物理学や数学との交流はほとんどないのである。

 それだけでなく、本書でも何度も述べていることだが、「心」というものは生命現象の一つにすぎないのである。ところが「心理学」という学問は通常「人文科学」に分類されている。

 ところで、「人文科学」と「社会科学」を合わせて「文系」の学問と呼び、一方「自然科学」のことを「理系」の学問と呼ぶ。したがって、同じ生命現象を扱う学問でも「理系」と「文系」に分断されていることになるのである。それだけでなく、学校教育では「化学」は「物理学」と「生物学」の中間に位置するものとして扱われている。したがって、学校教育では生命現象は専ら化学の立場で説明されているのである。

 それよりもっと重要なことは、学校教育における「生物学」では「心」、「文化」や「社会」に関することは一切扱っていないということである。この理由は、学校教育では「生命」は「自然」にふくまれるという「建前」(実際は違う)なので、「心」、「文化」、「社会」等「自然」にふくまれないものを「生命現象」として認めないからである。

 それでは、どうして学校教育はこんなにひどいものになったのだろうか。この理由は、学校教育が「超」のつくほどタテ割りだからである。「タテ割り」とは、物事を直線上にならべようとする分け方を指す。この「タテ割り」の弊害として、「カテゴリ−」や「序列」が生じることがあげられる。

 そして、学校教育における学問の「分類」というものは本来「カテゴリ−」や「序列」など存在しない学問をいくつかの「科目」に「分断」し、その「科目」をさらにいくつかの「分科」に分けるというしろものである。その結果、学校教育では「学問」が「分断」されて「連続性」が失われ、さらに「直線」上に並べられて「多次元性」が失われているのである。

 ただし、もちろん物事を「分類」することにも「メリット」はある。なぜなら、「連続的」なものよりも「離散的」なもののほうが、また「網目状」のものよりも「直線状」のもののほうがはるかに扱いやすいからである。

 しかし、このように物事を「離散的」なものにした結果、「実態」と大きく食い違ったものになることが多い。このことは2章で詳しく述べるが、「アナログ」を「ディジタル」に変換するときには必ず生じるものであり、これを一般に「量子化誤差」と呼ぶのである。

決して少なくない「誤った分類」

 しかし、皮肉なことに、物事をわかりやすくするはずの「分類」そのものが間違っていることが決して少なくないのである。この筆頭にあげられるのが「生命」を「自然」に分類することであり、「生命科学」や「心理学」の分類もその一例であるが、もちろんこのような「誤った分類」は他にもたくさん存在しているのである。

 例えば、「鉱業」は普通は「第二次産業」に分類されている。しかし、「第二次産業」には「製造業」や「建設業」のように原材料を「加工」して「付加価値」をつける産業が分類されており、「鉱業」とこれらの産業との共通点は全くといっていいほど存在しないのである。つまり、「鉱業」とは天然に存在する物資(「資源」という)をとり出すだけの産業であり、「鉱業」のこうした特徴は明らかに「農業」や「漁業」など「第一次産業」に分類されている産業に似ているのである。

 したがって、どう考えても「鉱業」は「第一次産業」に分類するほうが都合が良いことが明らかであろう。ところが、実際には「鉱業」は先述のとおり通常の分類では誤って「第二次産業」に分類されているのである。(もっとも、これは以前の話で、最近では「鉱業」は「農業」や「漁業」と同じく「第一次産業」に分類することのほうが多くなっている。この例からもわかるとおり、やはり「真理」は一つしか存在しないのである。)。

 他の例をあげると、学校教育では普通は「地理学」は社会科で教えられているが、この「地理学」の教育内容を見ると気候に関するところがその半分ぐらいを占めているのである。ここで当然のことながら「気候」なるものは「気象学」の対象の一つであり、もちろんこの「気象学」は「自然科学」の一種である。

 したがって、「地理学」は「社会科」よりもむしろ「理科」で教えたほうがはるかに適切なのである。実際、「地理学」自体が気候など自然現象を扱う「自然地理学」と社会現象を扱う「人文地理」とに分かれており、したがってこの「地理学」なる学問はきっちりと「自然科学」や「社会科学」に分けれないのである。したがって、学校教育で「地理学」を教えるときにそれを「理科」で教えるか「社会科」で教えるか問題になったのであるが、便宜上現実の学校教育では「地理学」は「社会科」で教えられることに決められたのである。

 もう一つの例として、「冥王星」は「地球」や「木星」と同じく「惑星」に分類されている。ところが、「冥王星」は「惑星」に分類されている天体の中ではずば抜けて小さいばかりか、その大きさがむしろ「ケレス」や「ベスタ」などの「小惑星」に分類されている天体に似ている。

 したがって、「冥王星」は「ケレス」や「ベスタ」と同じ仲間に分類するのが都合が良いことが明らかである。実際、むしろ「ケレス」や「ベスタ」のほうが冥王星よりもはるかに明るく、そのため冥王星よりずっと以前に発見されているのである。

 ところが、「天王星」や「海王星」の外側に「惑星」が存在すると信じていた天文学者は、「冥王星」は「天王星」や「海王星」と同じ仲間だと思い込み、そのため「冥王星」を「惑星」に分類したのである。ところが、後に海王星の外側に小天体がたくさん存在することが分かり、最近では冥王星もこの一員ではないかと考えられているのである。

 以上3つの例から明らかなように、互いに似ているものは同じ所に分類し、逆に似ていないものは異なる所に分類しなければならないということがわかるのである。たとえば、当然のことながら、どの2天体をとっても「小惑星」に分類されている天体は「惑星」よりも小さくなければならない。なぜなら、「小惑星」の本来の意味は、文字通り「小さな惑星」(したがって、厳密には「小惑星」は「惑星」の一種である)だからだ。それだけでなく、「惑星」に大きさの似ている「小惑星」があってはならない。したがって、「冥王星」を「惑星」に分類することは明らかにこの「天体分類」の「原則」に反するのである。

「誤った分類」をつくりだす「元凶」…社会のしくみ

 さらに重要なことは、このように間違った学校教育を作りだしている「元凶」がほかならぬ社会のしくみそのものであるということである。すなわち、われわれの作った社会の最大の特徴は物事を白黒はっきりさせることであり、このことについて例をあげると、選挙、採決、裁判などがあげられる。例えば、「選挙」や「採決」には必ず「死票」(否決者に投票された票)が発生する。この「死票」というものは「量子化誤差」の一種であり、この「量子化誤差」なるものは物事を白黒はっきりさせるときには必ず発生するものである。

 それだけでなく、本書でも何回も述べたとおり学校教育ではたくさんの間違った科学法則を教えているが、このことについてもその「元凶」はやはり政治にある。すなわち、政治には一度決めたことは容易に変えれないという性質(「慣性」という)がある。したがって、政治にはつねに「時代遅れ」になるという傾向があるのである。

 そして、この間違いだらけの学校教育を計画、指導しているのもやはり「欠陥」だらけの「政治」(もっと正確に言えば学校教育を指導しているのは「政治家」というよりもむしろ「官僚」である。)にほかならない。

NEXT

HOME