「通説」に反して…

 「『生命』は『自然』ではない」などというと、猛然と反論される。すなわち、『自然』の中核をなしているのが『生命』ではないのか」と。

 ただし、この場合は「『生命』は『自然』にふくまれる」という「通説」のほうが明らかに間違っている。この理由は前節で述べたとおり、われわれが「生物」であるがゆえに「生命」の存在しない世界というものを考えれないことと、「生命」と「社会」や「文化」とはまったく別のものであると教える間違った学校教育にある。

 それだけではなく、「常識」や「通説」というものは実は「客観」を装った「主観」にすぎないのである。

 例えば、「常識」というものはたかだか100年の間変わらないものを指すのである。すなわち、ヒトの寿命はわずか100年未満である。しかし、生物というものは生きている間しか物事を観察することができない(あたりまえであるが)。したがって、生きている間に起こらないことは永久に起こらないと思いこむ傾向が生物にはある。

 さらには、生物には「己」に関係のある物事は実際よりも大きいと思いこむ傾向もある。この例として、16世紀まで「地球」は宇宙の中心に位置すると信じこまれていたことがあげられる。しかも、その後も19世紀まで「太陽系」は宇宙の中心に位置すると信じられていた。

 また、その他の例として、「生命」(その中でも特に「文化」と「社会」)に関する学問が不当に大きく扱われていることがあげられる。つまり、「科学」は通常大きく「自然科学」、「社会科学」、「人文科学」の3つに分類されているが、本当は「社会科学」も「人文科学」も「生命科学」の一分野にすぎないのである。しかも、本来「自然科学」とは相容れないはずの「社会科学」、「人文科学」を除く「生命科学」が「自然科学」に入れられている。

 つまり、「自然科学」は「社会科学」と「人文科学」を合わせたよりもはるかにその範囲が広いにもかかわらず、「社会科学」や「人文科学」と同等の扱いとなっている。そのうえ、「自然科学」の中でも「生命」と関係のない学問はごく一部にすぎないのである。

 なお、学問をこのように間違って「分類」している「元凶」は言うまでもなく「学校教育」である。

「生命」が決して「自然」ではないこれだけの証拠

 それでも「『生命』は『自然』にふくまれる」とお考えの方は次の文章を読んでもらいたい。

 「自然」の「対義語」は「人工」である。また、「人工的なもの」の代表は「機械」である。ところで、「機械」は言うまでもなく「機能」を持っている。ところが、「生物」も「生命」という名の「機能」を持っている。したがって、「生物」は「機械」の一種であると考えられるのである。

 このことをもっと分かり易く言えば、「人工」という語の意味は言うまでもなく「ヒトが作った」であるが、「ヒト」というのは「生物」の一員にすぎない。したがって、「人工」という「自然」と対立する語の意味は「生命が関係する」なのである。すなわち、「生命」は「自然」とは相容れないものだということが一目瞭然である。

 また、実は「脳」という器官が全面的に「意志」に支配されているという考えは大間違いなのである。たとえば、筋肉には「己」の意志で動かせる「随意筋(骨格筋)」と「己」の意志で動かせない「不随意筋(内臓筋)」の2種類ある。しかし、「随意筋」、「不随意筋」両方ともそれを動かす命令は脳が行っている。すなわち、「脳」という器官には「意志」に支配されている部分と「意志」に支配されていない部分があることがこのことから明らかである。つまり、「脳」は決して特別な器官などではなく、「生命」を維持するために必要な一器官にすぎないということが明らかである。以上の2つの例から、「『生命』は『自然』の一部である」という通説は完全に間違っていることは一目瞭然である。

NEXT

HOME