「生命」は決して「自然」ではない
「自然」なる語の意味は、普通は「文化」や「社会」と対立するものであると考えられているみたいである。では「生命」はどちらに属すると考えられているのか。結論をいえば一般には「生命」は「自然」にふくまれると考えられているそうである。この一例をあげると、「自然の保護」というスロ−ガンの意味は「生態系の保護」という意味であることが多く、ここでは「生物」は明らかに「自然」の一員であると認識されている。
以上のことから、「自然」の意味は「知能が関係しないこと」であると考えられているらしい。この例として、「人工」という語は「自然」の対義語であるが、その意味は「技術が関係する」である。さらにいえば、「技術」はいうまでもなく「知能」と密接なつながりがあり、しかも「文化」の中に「技術」はふくまれている。なお、「不自然」は言うまでもなく「人工」と同義語である。
上記の文を読んで「おかしい」と思わないだろうか。つまり、「文化」や「社会」をつくるのは言うまでもなく「生命」を持った「生物」なのに、「生命」が「文化」や「社会」とは異なるところに分類されている。
すなわち、「生命」が「自然」に属するという考え方は明らかに誤りである。つまり、どう考えても、「生命」は「物質」よりもはるかに「文化」のほうに似ている。これなのに「生命」が「物質」や「エネルギ−」と同じく「自然」に属すると考えられてきたのはなぜか。その原因は学校教育にある。
つまり、学校教育における教科では「生物学」が「物理学」や「化学」と同じ「理科」(「自然科学」を指す)に分類されている。そのため「生命」は「文化」や「社会」と密接に関係しているにもかかわらず、両者はまったく別々に(「理科」と「社会科」で)教えられてきた。
しかし、(学校教育での扱いなど無視して)「生物学」(正しくは「生命科学」という)がどんな学問なのか考えてみると、「生物学」(誤った名称なので今後は使わない)は「物理学」よりもはるかに「社会科学」(「経済学」など)に似ていることが一目瞭然である。なぜなら、「社会」や「文化」は言うまでもなく(「意外なことに」ではない)生命現象の一種であるからである。
われわれの「自然観」は間違っている
以上のことから、「自然」という語の「真の」意味は『生命』(もちろん「『知能』もふくまれる)が関係しないこと」であるということは火を見るよりも明らかであろう。
しかし、皮肉なことに世間ではむしろ「無機化合物」でできているものを「人工」、その逆に「有機化合物」でできているものを「自然」と表現する傾向が存在しているのである。このことを説明すると、当然のことながら「有機化合物」でできたものを「自然」であると考える考え方は「自然」の本来の定義からして明らかに間違ったものの考え方なのである。すなわち、「有機化合物」という化合物とは言うまでもなく「生命」が関係している化合物のことであり、そこで「生命」はその本来の定義通り決して「自然」にはふくまれないのである。したがって、「有機化合物」というのは「自然」(もちろん、「生命」が少しでも関係するものは絶対に「自然」にはふくめない)には存在しえない化合物のことなのである。
なお、このようにわれわれが「『生命』は『自然』の一員である」という明らかに間違った考え方をしている根本的な理由は、先述のとおりわれわれ人類が知っている限り「地球」以外の天体には「生命」が存在しないにもかかわらず未だ少数の生物(「動物」、「植物」の両方がふくまれる)しか「地球」の大気圏外に出たことがないためにわれわれは「生命」が一切存在しない環境というものを知らないためである。つまり、われわれの自然観は所詮「井の中の蛙」にすぎないということである。
これと同じまったく理由から、われわれは「自然」が本来「生物」にとって厳しいものであるということをほとんど知らないのである。つまり、ここでいう「自然」とは主に「宇宙空間」(大気圏外のこと)を指しているのであるが、よく考えてみればこの広大な宇宙のほとんどが物質のまったく存在しない空間(「真空」と呼ぶ)なのである。しかも、「地球」を生物が居住できる天体にしたのは実はほかならぬ「生物」なのである。
たとえば、われわれ「動物」は「酸素」がなければ絶対に生きてゆけないが、この「酸素」をつくったのはもちろん「植物」である。また、「動物」は生きてゆくためには「食糧」も必要であるが、この「植物」はそのとき同時に「動物」にとって「食糧」となる有機化合物もつくっているのである。
このように、「生命」はその特殊性ゆえに絶対に「自然」には分類できないものであるにもかかわらず、われわれは己が「生物」であるがゆえに「生命」が存在することを当然のことだと勘違いし、そのために「生命」こそが「自然」の中核をなしていると思い込んでいるのである。
解説…「有機化合物」の「有機」というのは「『生命』が関係する」という意味である。すなわち、「有機」の「機」という字の意味は言うまでもなく「生命」という意味なのである。なお、「機械」という語に使われている「機」の意味は「機能」の「機」の意味とまったく同じである。つまり、「有機化合物」という語では「生命」を「機能」の一種とみなして「機」という字が使われているのであり、このことからも「生物」は一種の「機械」なのであり、したがって「生命」は決して「自然」にはふくまれないことがわかるのである。
また、「有機化合物」はその成分元素として必ず炭素をふくんでいるが、その逆は成り立たないのである。つまり、「二酸化炭素」や「炭酸塩」などのようにその成分元素として炭素をふくんでいてもその構造が単純なものやイオン結合によって原子同志が結合しているものは「無機化合物」に分類されているのである。なぜなら、「有機化合物」とは名前のとおり「『生命』と関係した化合物」のことであり、このように「有機化合物」だけが「生命」を担うことができる理由はその複雑な化学構造であり、この複雑な化学構造をつくりだしているのがほかならぬ「共有結合」だからである。