決して「生命」はあたりまえの存在ではない

 宇宙広しといえども(実際宇宙はとても広い)、生命が存在することが確実にわかっている天体は(西暦2000年の時点で)驚くなかれ、わが地球のみである。しかも、この狭い地球の中でも生物が居る所は地表(主に海洋)のみである。

 ではなぜ生命がこんなに「珍しい」存在なのか。この理由は物質界が生命にとってあまりにも厳しいからである。というよりも、これを客観的に(生命中心でない)表現すれば、生命があまりにも脆弱だからである。

 では、どうしてわれわれは「生物」や「生命」が存在することを「あたりまえ」だと思っているのか。この理由はわれわれが「生物」であるがゆえに「生命」が存在できない環境というものを知らないからである。

 以上のようなことを宇宙論では「知能原理」という。「知能原理」というのはダーウィンの自然淘汰説を物質界に応用したもので、われわれの住んでいる「環境」が生命の存在に適しているのはなぜかといえば、生命の存在に適した環境でなければ(当然のことながら)生命は存在せず、したがって環境がどんなものか知ることが出来ないからである。

 解説・・・「知能原理」のことを誤って「人間原理」ともいうが、この呼称は絶対に使わないでもらいたい。なぜなら、「人間」とは数ある生物の中の一種族をさす語であり、物理学用語に使うのは好ましくないからである。また、「知能原理」を「生命原理」ともいうが、この場合、「生命」よりも「知能」の存在に重点が置かれているので「知能原理」のほうがより適切である。

「唯心論」の復活・・・「知能原理」

 「知能原理」について考えてみるとかの有名な「唯心論」というものを思い出す。「唯心論」というのは、知的生命体(ヒト、イヌ等)が知っているものだけが存在するという考え方である。この「唯心論」は「唯物論」との争いに完敗し、廃れてしまった。なぜなら、「唯心論」はあまりにも主観的な考え方だからである。それだけでなく、「唯心論」を少し一般化すると「唯生論」という考え方になる。「唯生論」というのは、生命の存在しない環境について考えるのは無意味であるという考え方である。ところが、この宇宙は地球表面を除くとほとんど全てが生命の存在しない環境なのである。したがって、「唯生論」もやはり「唯物論」に敗れ、廃れてしまった。

 しかし、再び「唯心論」に復権の兆しが見えている。この一つの例が「知能原理」なのである。さらに、「魂」についても大昔から考えられていたが、20世紀末になって20世紀初頭に考え出された「量子論」を用いて「魂」を解明しようとする試みが始まった(本書もその一環である)。なお、「量子論」そのものが、よく知られているように「唯心論」の考え方を積極的に取り入れたものである。 

密接な関係にある「魂」と「地球外生命」

 本文2〜4章でくわしく述べるとおり、「魂」とは生命そのものなのである。しかも「魂」は電子や光子と同じく「素粒子」の一種である。すなわち、「魂」について考えることは「生命」を「物質」や「エネルギ−」と同じく物理学的な存在と考えることである。

 それだけでなく、「生命」は宇宙の中でも普遍的な存在であるという考えにもつながる。したがって、「魂」の存在を認めることは「地球」以外の天体にも「生命」が存在することを認めることになる。

 しかし、現時点では「生命」は「地球」だけにしか存在しない脆弱な存在ということしかわかっていない。それにもかかわらず、次節でくわしく述べるように、いまだに「生命」は「自然」に属する(本当は「生命」は絶対に「自然」にはふくまれない)と信じられているのである。

 「魂」なるものを発見し、宇宙における「生命」の地位を引き上げることはこれからの科学者に課せられた大きな課題である。

NEXT

HOME