教育界の大いなる謎…科学法則の教育内容

 ところで、学校教育の内容について調べるとすぐにその中でも科学法則に関するところが特にずば抜けてひどいことに気付くはずである。ここで断っていくが、学校教育の他の内容についてはそれが科学法則に関する部分よりも多少ましであるということに過ぎない。このことについて例をあげると、先述のとおり遺伝には2つの遺伝子対が独立である場合と連鎖している場合があるが、それにもかかわらず学校教育では「2つの遺伝子対は互いに影響を及ぼすことなく独立に遺伝する」(御存知のとおりこれが本当は決して実在しない「独立の法則」である)と教えられているのである。

 さらに悪いことには、このすぐ後にこの例外として2つの遺伝子対が互いに影響を及ぼしあう場合について教えていることである。このことはつまり先に教えた「すべての遺伝は独立である」(「独立の法則」)ということが嘘であったことになるのである。したがって、実は学校教育では嘘を教えていたことになるのであるが、なぜか科学法則についてはこのことが「嘘」としては扱われないのである(だから学校教育でこの法則が採用されているのであるが)。

 つまり、学校教育には科学法則についてはたとえそれが間違いであってもこれを「法則」として認めるという悪しき体質があるのである。さらに言うと、病的な学校教育と言えども科学法則以外のところについてはたとえそれが有名な学者の発表したものであっても間違った学説は一切教えていないのである。

 このことに関しては、学校教育において科学法則は何か特別な位置を占めていると考える以外に説明が困難なのである。この学校教育と科学法則との「腐った関係」とはすなわち本来箇条書きできないという性質をもつ自然界を無理やり「箇条書き」しようとするのが他ならぬ学校教育であり、またこの物事の「箇条書き」の手段でありかつ結果でもあるのが科学法則だということである。

「科学法則」の正体…「自然界」の「法律」らしきもの

 ところで、「法則」も「法律」も同じく「法」なる字が使われているが実はこの2つの語の語源もやはりまったく同じなのである。なぜなら、「法則」も「法律」も英語では同じく「law」というからである。しかも、この「law」なる語はもともと「法律」という意味で用いられていたが、それよりずっと後に自然界にもある規則性が存在することがわかり、この自然界の「規則性」なるものを「law」なる語に当てたのである。

 つまり、われわれ人類がつくりだしたものに他ならず、したがって「不自然」なものにならざるを得ない「law(法)」なる語がそれよりもずっと以前から存在している「自然界の規則性」なるものに転用され、これがいわゆる「法則」となったのである。

 したがって、自然界を「法則」で表すときわめて不自然な表現となると予想でき、実際その通りとなるのである。つまり、「科学法則」なるものは本来箇条書きできないはずである自然界を無理やり「箇条書き」なる記法で表現しようとするとんでもない代物なのである。さらに悪いことには何の科学的根拠もないのに複数の法則を総称して「法則群」なる呼び方をし、われわれがそれを自然界の唯一の表現方法であると思い込んでいるのである。さらに言うと、もともと「箇条書き」なる記法は「法律」を記述するために考えられた記法なので、「自然界」の「法律」であると考えられている「法則」がこの「法律」の記述方法である「箇条書き」を採用するのはごく当然のことなのである。

 しかも、学校教育は本来そのシステムが「超」がつくほど「縦割り」なので「箇条書き」なる記法はきわめて受けいれられやすいのである。この「箇条書き」の元祖が「法律」であり、「法則」はこの「法律」の記法をまねてつくられたものに他ならないので物事の性質を「法則」なるもので表すことは学校教育のシステムに大変マッチしているのである。以上のことから、学校教育が異常なほど「科学法則」にこだわる理由が説明できるのである。

科学界と教育界の病的な性格

 ここで大変気になるのは、あれほど学校教育が「科学法則」にこだわりながら決してその「科学法則」が間違っていることを認めようとしない学校教育(を指導している官僚)の不可解な行為である。このことに関しては、次のような理由が考えれるのである。

 つまり、(その法則が正しいかどうかは別として)学者がこのような表現形式で科学法則を発表したことはまぎれもない事実なので、学校教育を指導している官僚はその科学法則が正しいと考えているのである。しかし、このような表現形式で科学法則を発表したことは(たとえその法則が間違っていたとしても)科学史教育では教えてもよいがその法則が正しくないかぎり絶対に科学教育では教えてはならないのである。

 また、ほとんどの場合科学法則はそれが法則群としては間違っていても個々の法則は正しいので、学校教育を指導している官僚がこの法則を正しいと思いこんでいるのである。この事実は、本来頭が良いはずの官僚までもが科学法則が「法則群」として正しいこととはどういうことか理解していないことを如実に物語っているのである。

 そして、学校教育自体が複数の科学法則をまとめて「法則群」としてその科学法則を理解することをすすめているのである。このことについては、学校教育が一種の「洗脳」であると考えるより他にないのである。つまり、学校教育の(悪い)役目の一つとしてわれわれ民衆に「固定観念」を植え付けることがあげられる。そして、この学校教育の悪い性質がもろに現れたものが他ならぬ「宗教教育」をふくむ「思想教育」である。

 このことについては、複数の科学法則をまとめた「法則群」なるものを考えること自体が間違っているのである。なぜなら、先述のとおり物事は「箇条書き」できるほど単純ではないからである。そして、本書でも述べたとおりほとんどの科学法則についてそれが同じ法則であっても見方によって一つの法則に見えたり複数の法則に見えたりするのである。さらには、同一の「法則群」のメンバーとして扱われている法則がそれぞれ異なる分野の法則であるケースも決して少なくないのである。したがって、複数の科学法則をまとめて「法則群」としてその法則を理解することは正しいものの見方、考え方を著しく阻害することになるのである。

 それにもかかわらず、本書で述べたとおり学校教育は学者の考えの鵜呑みばかりやっており、さらにはわれわれに固定観念を植え付けているのである。さらに悪いことには、学校教育がわれわれに植え付けている固定観念が間違っていることを決して認めようとはせず、それ以前にその元凶となった学者の間違った考え方ですら間違っていると認めないのである。

 このことについては、われわれは学者は優秀なので絶対に間違った考えをせず、また学校教育は教育の専門家が指導、管轄しているので絶対に間違ったことを教えないという「幻想」にとりつかれていると結論する他にないのである。しかし、学者の考えや学校教育を鵜呑みにして絶対にそれを批判しないことがどれほど恐ろしいことであるかは本書でも何度も述べたとおりである。言いかえると、学者は優秀なのでその学者の考えたことはつねに正しいと思いこむこと、もっと一般的に表現すると物事を理論的に考えることができず経験によってしか考えれないことこそがわれわれ生物の最大の「宿命」なのである。

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