決して普遍的ではない「物理学」と「化学」に分ける教育

 ところで、こうした悪しき学校教育の「権威主義」的な体質はもちろん科学法則に限ったことではないのである。例えば、学校教育では普通「物理学」と「化学」を別々に教えているが、この「物理学」と「化学」の間には共通する分野がたくさん存在しているのである。この例をあげると、「熱力学」や「原子物理学」などがそうである。しかも、この事実は「物理学」も「化学」も同じく「物質」を対象とする学問である以上ごく当然のことなのである。

 しかも、正確にはこの「化学」なる学問は「物性学」という学問の一分野にすぎないのである。なぜなら、「化学」ではその名の通り物質の変化や反応を主として扱うが、言うまでもなくこれらのことは物質の一種の質的な特徴なのである。したがって、正確には物質を扱う学問は「物理学」と「物性学」(もちろん「化学」もこれにふくまれている)とに分かれている(この両者を総称して「物質科学」と呼ぶ)、という表現が正しいのである。

 したがって、上記のことから「物理学」は「物質」の「量的」な面を扱う学問、一方「物性学」は「物質」の「質的」な面を扱う学問ということができる。しかし、物質の「量」的な特徴と「質」的な特徴は決して独立しているわけではなく互いに密接に関係しあっているのである。たとえば、物質の性質は巨視的に(生物以上のスケ−ルで)考えると化学的性質なのであるが、微視的に(分子や原子のスケ−ルで)考えると物理的性質となるのである。つまり、物質の化学的性質なるものはその物質を構成している原子の原子核の電荷や電子の個数で決まるのであるが、それらはいずれも原子の物理的性質だからである。

 それにもかかわらず、学校教育ではその誕生以来ずっと「物理学」と「化学」を別々に教えてきたのである。この原因は、学校教育はまずヨーロッパで誕生したが、このときヨーロッパの科学者は物質をその量的な面と質的な面とに分ける習慣を持っていたからである。これがいつしか物質を扱う学問までもが「物理学」と「化学」をその一分野としてふくんでいる「物性学」とに分けられるようになったのである。その後学校教育にも物質を扱う学問を「物理学」と「化学」とに分け、それらを別々に教える方法が採用され、このやり方が現在まで続いているのである。そして、このヨーロッパでの教育方法を全世界の国々が真似し、そのために物質を扱う学問(物質科学)を「物理学」と「化学」に分けるやり方がデファクトスタンダード(事実上の世界基準)になったのである。

 しかし、以上のごとくヨーロッパの科学者が物質の量的な特徴と質的な特徴の違いにこだわったからこそ物質のこのような分け方が世界基準となり、「物理学」と「化学」を別々に教える学校教育がデファクトスタンダードとなったことを絶対に忘れてはならない。つまり、「物理学」と「化学」を別々に教える学校教育ができたのは決して「必然」ではなく歴史上の「偶然」にすぎないのである。逆に言えば、もし地球外生物が存在しその地球外生物が学校教育をやれるほど文明が発達していたとしても、その学校教育における物質科学の教え方がわれわれの学校教育でのやり方と同じであるとは限らないのである。

「物理学」と「化学」を一緒に教えるとこうなる

 しかし、こうした学校教育の「物理学」と「化学」を別々に教えるやり方は大変効率の悪い教育方法となっているのである。なぜなら、このやり方だと「熱力学」や「原子物理学」など「物理学」と「化学」の両方に属している分野を2度教えることになるからである。したがって、「物理学」と「化学」を一緒に教えれば効率が良く無駄のない教育が実現できると予想できるのである。しかし、学校教育の「カテゴリー」に非常にこだわる体質が災いして「物理学」と「化学」を一緒に教える学校教育など過去にも現在にも一度も実施されたことはないのである。

 上記のごとく学校教育が異常なほどカテゴリー(範疇)にこだわる理由は、言うまでもなく学校教育のしくみが「超」がつくほど縦割りだからである。つまり、学校教育では学問を「科目」なる一種のカテゴリーに分け、その「科目」ごとに学問を教えているのである。しかし、ここで問題になるのが「物理学」と「化学」など共通の分野を抱える科目がたくさん存在するにもかかわらず、それらの科目をまったく別々に教えていることである。この理由は、教科書、教員や授業時間など学校教育のシステムが驚くほど「規格化」されているからである。したがって、「物理学」と「化学」など複数の科目を同時に教えるにはまず学校教育のシステムを改めねばならぬのである。

 しかし、「物理学」を学習している者のうちほとんどは「化学」も学習していることはまぎれもない事実である。この理由は、もちろん先述のとおり「物理学」も「化学」も同じく物質を対象とする学問だからである。しかも、化学は化学現象を直接的な方法で理解してゆく「初等化学」と物理学的な方法で理解してゆく「物理化学」とに分けられるが、そのうち「初等化学」を教えるのはその名のとおり初等教育・中等教育がメインであり、高等教育になると化学の授業はほとんど「物理化学」のみとなるのである。

 したがって、見方によっては「物理学」と「化学」を一緒に教える学校教育はもうすでに半ば実現していると考えれるのである。したがって、複数の科目を一緒に教える教育システムは決して実現不可能ではなく、少し学校教育のやり方を改めればすぐに実行できるのである。

 このやり方とは、「物理学」と「化学」それぞれの単独履修者向けと共通履修者向けの2種類のカリキュラムをつくることである。そして、従来の「物理学」や「化学」のカリキュラムはそれらの単独履修者向けのカリキュラムとすればいいのである。

「範疇」にこだわらなければ学校教育は改善できる

 それどころか、学校教育では物理学と化学が分断されているのみならず、物理学の各分野までもが分断されて教えられているのである。例えば、当然のことながら力学における「保存」の概念と同じものが熱にも電気にも磁気にも素粒子にも存在している。これらの概念が「エネルギー保存」、「質量保存」、「運動量保存」、「角運動量保存」、「電荷保存」などであり、これらを定式化したものが他ならぬ各種の「保存則」である。それなのに、学校教育での物理学の科目は力学、熱力学、電磁気学、原子物理学……と分断され、同じ概念の事を何度も学ばされる――という実に非効率的なシステムになっている。

 ここで「保存」やそれを定式化した「保存則」などの物理学における基本的な概念を教える科目があれば、専門に特化した科目は最小限で済み、その内容は大幅に圧縮できるはずである。

 この例として先述のケプラー運動と単振動を対比させて教える教育があげられる。つまり、単振動もケプラー運動も同じく中心力によって生じる運動であり、したがって当然のことながら両者の間には数多くの共通点が存在している。この例が、ケプラー運動にも単振動にも角運動量保存則やエネルギー保存則に対応する法則が存在していることである。したがって、単振動やケプラー運動などの中心力によって生じる運動を一括して教える科目があれば、「ケプラーの法則」についてもそれを単振動にまで拡張した形で教えることが可能となり、このことによってこの「ケプラーの法則」が生ずるしくみやこの法則の他の物理法則との関連についてもいとも簡単に理解させることができるのである。

 また、こうしたカテゴリーごとに分断されている教育はもちろん自然科学に限ったことではないのである。たとえば、学校における文法教育は日本語、英語、中国語、フランス語など各語種ごとに分断され、さらには日本語の文法までもが古語文法と現代語文法に分断されている。このせいで、同じ概念の事を幾度となく学ばされる羽目に陥っているのである。

 この理由は、文法は言語の中でも最も共通性が高い要素の一つだからである。また、世間ではほとんど知られていないことであるがこのことが異なる言語の間で翻訳が成り立ち、意思が通じる理由となっているのである。それなのに実際の学校教育では語学をほとんど「語種」のみで分類しその「語種」ごとに文法が別々に教えられているのという、実に非効率な教育内容となっているのである。

 ここで「普遍文法」(すべての言語に共通して存在すると考えられている文法)などのすべての言語に共通する考え方を教える科目があれば、各語種ごとに個別に教える内容は最小限で済み、その結果きわめて効率の良い語学教育が可能となるはずである。

 ところで、先述のとおり学校教育は科学法則に限らず実に「箇条書き」なる記法が多いが、この事実はやはり学校教育のシステムが「縦割り」であることを物語っているのである。つまり、「箇条書き」の最大の特徴はそのメンバー同志のつながりをまったく無視することである。そして、こうした「箇条書き」なる表記がきわめて困難であるという自然界の実に好ましくない性質に対する学校教育の対応のまずさこそが学校教育が批判を受ける(本書でもあちこちで学校教育を批判している)最大の原因となっているのである。

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