「科学教育」と「歴史教育」を混同してはならない
ところで、科学法則を発見したことを教えるのは「科学史教育」であって決して「科学教育」ではないのである。なぜなら、学者の考えはたとえそれが誤りであってもちゃんと「事実」となるからである。しかし、当然のことながら学者の間違った考えはたとえそれが事実であっても決して「科学教育」では教えてはならないのである。なぜなら、もちろん「教育」では真実しか教えてはいけないからである。
そして、「歴史」では学者がこのように考えたという「事実」がそのまま「真実」となるのである。しかし、「科学」では学者の考えが正しくなければ決して「真実」とはならないのである。なぜなら、「科学」では学者の考えたこととは無関係に「真実」のみを論じるが、一方「科学史」ではその学説の正否にかかわらず学者の考えたことについて論じるからである。言いかえると、「事実」を教えるのが歴史教育、一方「真実」を教えるのが科学教育である。
それにもかかわらず、現実の学校教育では「科学史教育」を「科学教育」と偽って教えているのである。この理由は、われわれの知りうるかぎり人類の他に文明を持った生物が存在しないために、科学における法則や定理の発見が歴史上唯一のことであると勘違いしているためである。また、同じ理由から科学法則はそれが発見される以前からずっと存在し続けているのである。
このことは世間では意外に気付かれていないがきわめて重要なことである。なぜなら、物事は存在するがゆえに誰かがそれを発見できるからである。言いかえると、物事はそれが存在する限り必ず発見される運命にあるのである。したがって、科学法則を発見したこと自体はもちろん「必然」である。しかし、その科学法則をいつ、誰が、どのように発見したかは「必然」ではなく「偶然」にあたるのである。
それにもかかわらず、学校教育は「ケプラーの法則」、「運動の法則」、「遺伝の法則」などの科学法則の表し方は1通り(その法則の発見者の考えた表し方のみ)しかないという間違った「固定観念」を植え付けているのである。ここで断っておくが、科学法則の発見者の考えた表し方はその発見者の「主観」にすぎず、したがって、科学法則がこのような形で発表されたことはまぎれもなく歴史上の「偶然」にすぎないのである。それにもかかわらず、たとえ偉大な学者でもそのうちほとんどの学者は自分の発見は「偶然」なのか「必然」なのか、また自分の学説は「主観」なのか「客観」なのか判断できないのである。
したがって、有名な学者の考えならばたとえそれが誤りであっても鵜呑みにするという学校教育の悪しき体質も元をただせばここから来ているのである。つまり、われわれ人類は物事の発見についてそれが「偶然」なのか「必然」なのか見極める能力があるほど「知的」ではないのである。そしてこのようにわれわれが「知的」でないがゆえに学校教育が多少間違っていてもそれを修正しようとはぜず、またそれ以前にわれわれは学校教育が間違っていることにすら気付いていないのである。
忌まわしき学校教育の歴史
さらに言うと、学校教育自体「科学」教育よりも「宗教」教育や「思想」教育をメインにしていた時代がごく最近まで続いたのである。なぜなら、宗教を一般大衆に広める(布教)ために学校教育ができたからである。その後、政府が学校教育を管轄するようになると学校教育が政治に利用されるようになり、宗教と政治がタッグを組んで(このような宗教と政治の癒着のことを「政教一致」という)その宣伝のために学校教育を普及し、それを積極的に利用したのであった。
そして、社会科学をふくむ生命科学の教育においては昔も今もその教育内容が「宗教」や「政治思想」によって大きく歪曲されているのである。たとえば、ある国ではいまだに「ダーウィンの進化論」が教えられていないのである。なぜなら、「ダーウィンの進化論」に従うとすべての生物は共通の祖先から進化したことになり、しかも人類に最も近い生物は猿(ヒトも猿も霊長類である)であるということになるからである。したがって、この学説は全人類はアダムとイブの子孫であるとする「旧約聖書」の教義に反することになり(「旧約聖書」ではアダムとイブには親がいなかったことになっている)、この「旧約聖書」の教義を絶対とするキリスト教徒には到底受け容れられるものではないからである。
また、やはり学校教育は社会主義の宣伝にも大いに利用されたのである。つまり、社会主義が平等であることは社会主義国家はもちろんのこと資本主義国家の学校教育においても大々的に宣伝され、このことが社会主義思想が全世界に広がり、それによって多くの社会主義国家が誕生した最大の理由となっているのである。また、その他にも学校教育は民衆に「民族主義」なるものを植えつけ、この「民族主義」が幾度となく悲惨な戦争を引き起こした最悪の元凶となっているのである。
以上のことから、「宗教」こそがわれわれの合理的思考を阻害し、科学の発展を妨げてきた元凶となってきたことが明らかである。それにもかかわらず、学校教育自体が宗教教育のためにつくられたこともあって、学校教育では科学教育のやり方が目に余るほど下手である。
このように考えてみると、学校教育が有名な学者の学説ならばその正誤にかかわらず鵜呑みにするという「権威主義」に陥っているのはその生い立ちからみてごく当然だということになるのである。つまり、1人の教祖の考えの「鵜呑み」こそがいわゆる「宗教」のルーツであり、この「宗教」が「権威主義」なのは教祖の考え(教義)を絶対とする以上ごく当然のことなのである。
また、学校教育が歴史的事実を重視しすぎているのもこの「歴史的事実」こそに「権威」なるものがあると考えられているからである。しかし、実をいうと「歴史的事実」なるものの正体は学者による誤説の発表の連続であり、この「誤説」を「正説」と偽って教えているのが他ならぬ学校教育である。しかし、学校教育では学者の失敗例(誤説の発表もこの学者の失敗例であるが、これを「誤説」と認めないところが学校教育の病的な性格である。)など学校教育にとって都合の悪いところは一切教えないのである。なぜなら、言うまでもなく「教育史」は「科学史」の一部であり、この「科学史」において学者の過ちを認めることはすなわち学校教育の失敗(先述のとおり、学校教育の歴史は失敗の歴史である。)を認めることにつながるからである。