各々の科学法則の問題点
学校教育で扱われている主な科学法則の問題点は大きく分けて
・「法則」自体が間違っている。(生命科学(学校教育での呼称は「生物学」)、社会科学に多く見られる)
・「法則」自体は間違っていないが、その法則が「法則群」としては間違っている。(物理学をふくむほとんどの学問に見られる)
以上の2つのケースに分けられる。
これらの科学法則の問題点を詳しくあげると次のとおりとなる。
・ケプラーの法則
・まず、この法則の文中の「惑星」、「太陽」なる語をそれぞれ「公転天体」、「中心天体」に改める必要がある。
・この法則自体は決してニュートン力学の範囲内では間違っていないが、追加する必要がある法則および独立変数がたくさん存在している。
・この追加すべき法則は、「公転軌道面は不変」および「公転天体の公転速度の2乗と中心天体からの距離の逆数との差は常に一定」の2つである。これらの法則のうち前者は「角運動量保存則」のうちその方向に関するものであるが、この法則は「面積速度一定の法則」の一部として片付けることができる。後者は「エネルギー保存則」に対応するものであり、この法則は面積速度一定の法則とは別の法則であると考えるよりほかなく、したがって実際にはこの「ケプラーの法則」は3つではなく4つの独立した法則からなる法則群となる。
・このメンバーである「公転周期の法則」には「中心天体の質量」および「軌道離心率」なる2つの独立変数を追加する必要がある。こうして一般化された「公転周期の法則」は「公転周期の2乗は軌道長半径の3乗に比例し、中心天体の質量に反比例する。ただし、軌道長半径が等しいならば公転周期は軌道離心率の値とは関係なく一定である。」となる。
・この法則は万有重力が物体間の距離の2乗に反比例することを裏付けている法則である。したがって、この法則は「法則」よりもむしろ「定理」と呼んだほうが適切である。また、中心からの距離に比例する中心力による運動(「単振動」のこと)についても「ケプラーの法則」に類する定理や法則を考えることができる。なお、「ケプラーの法則」のような厳密な法則でその運動を記述できるのは中心からの距離に比例する場合(単振動)もしくは距離の2乗に反比例する場合(ケプラー運動)のみである。
・この中でも特にガリレイによって発見された「振り子の等時性」が「公転周期の法則」の単振動版であることは世間ではまったくと言ってよいほど知られていない。それ以前の問題として公転周期の2乗が軌道長半径の3乗に比例することが万有重力が物体間の距離の2乗に反比例することと同値であることすら世間では意外に知られておらず、要するにケプラーの法則と他の物理法則との関係自体が世間ではほとんど知られていない。
・円以外の軌道上を公転している天体が中心天体に近いときほど速く公転運動する理由が軌道長半径が小さい軌道上を公転している天体ほどその平均公転速度が大きくなる理由とは異なることは世間ではまったくと言ってよいほど知られていない。すなわち、「面積速度一定の法則」も「公転周期の法則」も要するに「中心天体に近いほど速く公転運動する」ことを言っているのであるが、このうち「面積速度一定の法則」については角運動量が保存されることがその理由であり、したがって中心天体に近いほど万有重力が強くなることとは一切関係がないのである。しかし、実はこの事実はきわめて重要なことである。この理由は、このことによって中心力が距離の何乗に比例するかによってそれによる運動のしかたが変わってくるためである。
・ニュートンの力学の法則
・この法則の元来の名称である「運動の法則」なる語がこの法則群の名称およびこの法則群中の2番目の法則の名称という2つの意味に用いられている。したがってこの法則群の名称を「力学の法則」に改める必要がある。
・この法則群のメンバーである「慣性の法則」は同じくこのメンバーである「運動の法則」の「系」となっている。つまり、「慣性の法則」は「運動の法則」において力がゼロであるケースのことである。ただし、だからといってこの「慣性の法則」がまったく不要というわけではない。なぜなら、「運動の法則」は慣性系でなければ成り立たない法則であり、「慣性の法則」はこの「慣性系」を定義する法則であるからである。
・社会的見解ではこの法則群のメンバーとなっている「作用・反作用の法則」は物体が静止しても成り立つので運動とは一切関係のない法則である。したがって、この法則を力と運動との関係を表す法則(「慣性の法則」および「運動の法則」のこと)と同じ法則群にふくめるのは場違いである。
・同じくニュートンが発見した法則であるにもかかわらず、「万有引力の法則」がこの法則群のメンバーとして扱われていないことはこの法則群の数少ない正しいことである。つまり、この「万有引力の法則」は「万有引力」という特定の力に関する法則であり、この法則を力学に関する法則と一緒にするのは場違いなのである。ニュートンがこのことに気付き、「万有引力の法則」を「力学の法則」のメンバーとして扱わなかったのは少しはニュートンが利口だったということである。
・熱力学の法則
・「熱力学第一法則」および「熱力学第〇法則」はあたりまえすぎてこれをわざわざ「法則」として述べる必要性がない。つまり、「熱力学第一法則」は「熱」と「エネルギー」の等価性を示す法則であるが、現在では誰でも「熱」が「エネルギー」の一種であることを知っており、したがってほとんどこの法則には必要性がない。また、「熱力学第〇法則」に至ってはこの法則は「温度」なる物理量の一意性を示す法則であるが、「温度」が一意的であるがゆえにこれが「物理量」として定義できるのであり、したがってわざわざこの法則を述べる必要性はまったくない。
・「熱力学第二法則」と「エントロピー増大則」が別の法則であることは世間では意外に知られていない。つまり、「熱力学第二法則」は熱現象における「エントロピー増大則」のことなのであるが、一方「エントロピー増大則」は熱が関係しない現象をも対象にしており、したがって決してこれら2つの法則は同一のものではない。それにもかかわらず世間では誤ってこの「熱力学第二法則」が「エントロピー増大則」の意味で用いられているケースが少なからず見られる。
・「熱力学第三法則」は世間ではほとんど知られていない。なお、実はこの「熱力学第三法則」は「エントロピー増大則」の「系」である。つまり、熱機関を逆向きに運転させると物体の温度を冷やすことができるが、その物体が周囲の温度と比べて低温になるほど物体を冷やしにくくなるので決して絶対零度には到達できないわけである。
・メンデルの遺伝の法則
・この法則はほとんど「法則」としての体をなしていない。なぜなら、この法則は例外だらけであり、さらに重要なことには決して「生物」自体が普遍的な存在ではない(今のところ生物の存在が確認されている天体は地球のみ)からである。
・中でもこのメンバーである「顕性の法則」に至っては正しい、正しくないを論議する以前の問題である。なぜなら、この法則では例外と見なされているケース(「不完全顕性」のこと)が実は本来のケースだからである。つまり、すべての遺伝子が個体に及ぼす影響の総和が「表現型」となって現われるというのが正しい法則なのであり、実は「完全顕性」は片方の遺伝子に機能がまったく存在しないケースである。それにもかかわらず社会的見解ではこのセオリーはまったく逆に考えられている。つまり、通説では誤って「完全顕性」(「顕性・潜性」が生じるケース)が本来のケースであると考えられ、「不完全顕性」(中間雑種が存在するケース)はその例外と見なされている。
・「顕性の法則」は上記のことを抜きにしても間違っている。つまり、「顕性・潜性」は表現型に関する性質であって、決して遺伝に関する性質ではない。したがって、「顕性の法則」を「遺伝の法則」のメンバーとして扱うのは場違いである。
・この法則群のメンバーである「独立の法則」もやはり「科学法則」として認定される基準に達していない。なぜなら、遺伝にはこの法則の例外として扱われている「連鎖」なる現象が少なからず起こり、しかもこの現象は決して珍しくない(平均して10件に1件ぐらい起こる)からである。
・この法則群のメンバーの中で唯一正しい「分離の法則」は「科学法則」として扱われる資格を持っていない。なぜなら、法則は物事の間の関係を示すものであり、したがって条件式で表されるものだけが「法則」として認められるからである。しかし、実はこの法則は「ドルトンの原子説」にきわめてよく似ており、この法則も「ドルトンの原子説」も物事の間の関係を示すものではなく、したがってこの「分離の法則」は法則としては扱えないのである。なお、「分離の法則」は「ドルトンの原子説」にならって「メンデルの遺伝子説」と呼びかえるのが適切である。
・その他の法則
・「オームの法則」は「物理法則」として扱われる条件を満たしていない。なぜなら、この法則は原子や電子が存在するという物理学的にはきわめて特殊な条件でのみ成り立つ法則である。したがって、この「オームの法則」法則をより一般性が求められる「物理法則」として扱うのは困難である。
・「ハーディ・ワインベルクの法則」は「突然変異」および「淘汰」が起こらないことを前提とする法則であり、したがって現実の生物界が決して定常なものでない以上絶対にこの法則は成り立たないのである。
・「政治」を行う者が己の権利、利益のみを主張するわれわれ「生物」である以上、「平等」な「社会主義」など絶対に実現不可能である。それにもかかわらず、学者の間では「神」が政治を行えば「平等」な「社会主義」が実現するなどと考えられている。こうした科学界の現実離れした性格には唖然とさせられる。
・アダム・スミスの考えはほとんど正しいが、1つだけ重大な誤りがある。この誤りとは、経済活動における「慈愛心」の存在を全面的に否定したことである。つまり、経済活動において「慈愛心」なるものが存在しなければ私利私欲のみを追求し、したがって「公共の利益」など生じないはずである。
「箇条書き」…最悪の科学法則の表記法
ところで、多くの科学法則について調べるとその名称には学者の名前と番号を用いたもの(〜の第〜法則)がきわめて多いことに気付くはずである。このような科学法則の命名法はまさに「百害あって一利なし」なのである。なぜなら、このような学者の名前と番号だけの法則名ではこの法則名を見たのではそれがどんな法則かわからないからである。
この中で、同じ学者の発見した法則をまとめて「法則群」とすることは「場違い」を生む最大の元凶なのである。なぜなら、ほとんどの場合学者は複数の分野にわたって研究しており、したがって同じ学者が違う分野に属する法則を発見したケースが少なからず存在するからである。
たとえば、マクスウェルは電磁波の伝播についての法則を発見したことで有名であるが、もう一つ忘れてはならないものは熱運動の速度分布およびエネルギー分布則を発見したことである。したがって、マクスウェルは「電磁気学」および「熱力学」でそれぞれ法則を発見し、これら両方の分野において多大なる業績をおさめたのである。それにもかかわらず、誰も「電磁気学」と「熱力学」を合わせて「マクスウェル物理学」とは呼んでおらず、またマクスウェルが発見した法則をまとめて「マクスウェルの法則」とは呼んでいないのである。なぜなら、御存知のとおり「電磁気学」と「熱力学」は互いにまったく異なる学問であり、これら2つを偶然同じ学者が研究していたからといってひとまとめにするのは場違いだからである。
また、科学法則を「〜第〜法則」というふうに番号で呼ぶことに至っては科学的なものの見方、考え方を妨げる最悪の行為なのである。まず法則を番号で呼ぶことは「この法則群は〜個の法則から成る」(この場合法則名から番号を除いたものが法則名の名称となる)という「固定観念」を植え付けることにつながるのである。しかし、ある法則が存在するときにこの法則を1つの法則と見るか、それとも複数の法則と見るかはわれわれのものの考え方に依存するものであって絶対的な基準など存在しないのである。
この理由は、自然界がとても「箇条書き」できるような代物ではないからである。つまり、自然界は物事が互いに複雑に関連しあっているのでそれをとても「箇条書き」できるような生易しいものではないのである。それにもかかわらず、学校教育では科学法則に限らずこの「箇条書き」なる記法が頻繁に用いられている。この理由は、単に「箇条書き」が最も整理しやすい記法であるからに他ならない。しかし、自然は決してわれわれの望むとおりにできているのではない。こうした学校教育の物事を何でも無理やり箇条書きし、その結果その物事を正しく教えれないという病的な体質を一刻も早く改めてもらいたいものである。