「法則」が間違っている「真」の理由

 本書では、これまで多くの科学法則についてその間違っているところを指摘してきたが、本文をよく読むと科学法則自体は間違っていないにもかかわらず(実際、本書で取り上げた科学法則の中でその法則自体が誤りであるのは遺伝および社会科学に関する法則だけである。)その科学法則には修正が必要であると指摘したところがとても多いことに気付くはずである。

 なぜなら、個々の法則が正しいことは必ずしもこれらの法則が「法則群」(複数の互いに関連のある法則をまとめたもの。本書で述べた「ケプラーの法則」や「熱力学の法則」などがその代表例である。)として正しいことを意味しないからである。このように科学法則が「法則群」としては間違っているケースとしては、まず法則群のメンバーの中にこの法則群中の他の法則とは異なる分野に属する法則がふくまれているケースがあげられる。この代表例が本文で述べた「作用・反作用の法則」や「顕性の法則」(もっともこれ以前の問題としてこの「顕性の法則」そのものが間違っているが)である。

 つまり、「作用・反作用の法則」はその法則の説明にまったく「運動」なる語が使われておらず、またこの法則は物体が静止していても成り立つことからもわかるように運動とは一切関係のない法則なのである。それにもかかわらず、学校教育をはじめとする社会的見解では「作用・反作用の法則」は「運動の法則」(本文でも述べたとおりこの呼称は法則群の名称およびこの法則群中のあるメンバーという2つの意味に使われているが、この場合はもちろん後者である。したがってこの法則名を一刻も早く「力学の法則」に改めるべきである。)のメンバーとして扱われているのである。

 また、「顕性の法則」はこの法則自体が間違っていることを抜きにしても遺伝とは一切関係のない法則なのである。つまり、本文でも述べたとおり「顕性・潜性」は表現型に関する性質であって遺伝子の伝わり方には一切関係せず、したがって遺伝学では遺伝子型のみを問題とするのでこの「顕性の法則」を「遺伝の法則」のメンバーにするのは明らかに場違いなのである。

 また、科学法則が「法則群」としては間違っているもう一つのケースとしては法則群のメンバーのある法則がこの法則群中の他の法則の「系」となっているケースがあげられる。この代表例が言うまでもなく「慣性の法則」が「運動の法則」の例としてふくまれているという事実である。この事実は「運動の法則」において力がゼロであるケースを考えてみればすぐにわかることである。しかし、等速直線運動が運動の中でも特別なもの(慣性系の存在と密接な関係がある)であることからガリレイ、デカルトやニュートンはこの「慣性の法則」を運動を記述する法則として採用したのである。しかし、かの有名なニュートンでさえも「慣性の法則」が「運動の法則」の系であることに気付かなかったのである。まして学校教育を指導している官僚がこの事実に気付き、教科書に「『慣性の法則』」は『運動の法則』の系である」と記述するとは到底考えれるわけがないのである。

 また、科学法則がこの法則が所属している法則群以外の法則の「系」となっているケースももちろん存在するのである。このケースとは言うまでもなくほとんどの物理法則が「エネルギー」をはじめとする「保存則」の系となっているという事実である。もちろんこの理由は「保存則」こそが物理学における基本法則だからである。言うまでもなくこの場合には学校教育ではまず「保存則」などの基本法則を教え、その後余裕があれば「作用・反作用の法則」や「ケプラーの法則」などの誘導法則(「保存則」などの「基本法則」の「系」となっている法則を「誘導法則」と呼ぶ)を教えるべきなのであるが、現実の学校教育ではこれらの法則を教える順序が逆になっているケースが実に多いのである。

 たとえば、学校における物理教育では「作用・反作用の法則」を先に教えているが、このときにはまだ「運動量」なる物理量は教えられていないのである。そして、このずっと後になって「運動量」および「力積」(これら2つの物理量は同次元(その次元はいずれもLMT^-1)である)を教え、そのときになってようやく「運動量保存則」なる法則を教えているのである。なお、学校教育ではこの「運動量保存則」の証明に「作用・反作用の法則」を用いているが、「作用・反作用の法則」が「運動量保存則」の系であることを考えると「運動量保存則」を教えていれば「作用・反作用の法則」を教える必要などないのである。ましてこの「運動量保存則」は「作用・反作用の法則」を一般化したものであると教えることなど問題外である。

「法則群」に求められる性質…「適材適所」

 この事実は、ちょうどスポーツにおいてそのチームの個々の選手の能力がいくら優れていてもそのチームが優れているとは限らないこととまったく同じ理由である。このことについて例をあげると、野球やバレーボールの選手がいるサッカーのチームはいくらその選手が野球やバレーボールの選手として優れていてもこのチームはサッカーのチームとしては劣っているのである。なぜなら、あたりまえではあるが「サッカー」なる競技は「サッカー」に関する技能を競いあう競技であり、したがってこの競技において野球やバレーボールの技能などまったく役に立たないからである。

 このケースは、ちょうど法則群中に「場違い」な法則がふくまれているケースに相当する。すなわち、「チーム」や「法則」など「グループ」にはその全メンバーに共通性がなければならないのである。なぜなら、当然のことながら複数の物事に共通するものがあってはじめてそれらをまとめて「グループ」にする意味が出てくるからである。

 また、もう一つの例をあげるとゴールキーパーだけのサッカーのチームもいくらその選手がゴールキーパーとして優れていてもこのチームはやはりサッカーのチームとしては劣っているのである。なぜなら、「サッカー」なる競技においてゴールキーパーは1名で充分であり、したがってゴールキーパーが複数いてもそのうち試合に出れるゴールキーパーは1名だけである。したがってその他のゴールキーパーは試合に出れず無駄になるだけだからである。もう一つの理由はゴールキーパーだけのサッカーのチームには他のポジションを担当する選手がおらず、したがってこんなチームはまともに試合などできないのである。

 このケースは、ちょうど法則群中のある法則が同じ法則群中の他の法則の例としてふくまれているケースに相当する。すなわち、「チーム」や「法則」など「グループ」にはその全メンバーに独立性がなければならないのである。なぜなら、グループのメンバーの中に重複するものがあればその重複しているメンバーはそのうちのどれか一つあれば充分であり、したがってその他のメンバーは無駄になるだけだからである。

 このように、法則群には単独の法則には決して求められない性質が求められるのである。この性質とはもちろん「適材適所」である。この「適材適所」なる性質とは読んで字のごとく充分な能力をもった資材がそれを最も必要としている部門に配備されていることなのである。そして、法則群にはそのメンバー同志が互いにその法則群中の他の法則にないものを補いあうという機能も求められるのである。

 例えば、先述のとおりケプラーが発表した「ケプラーの法則」では「エネルギー保存則」に対応する法則が抜けているが、この「エネルギー保存則」は「運動量保存則」や「角運動量保存則」と並ぶ力学における基本法則であるのでこの法則(公転天体の公転速度の2乗と中心天体からの距離の逆数との差は常に一定である)が抜けていれば決して法則群としての「ケプラーの法則」は完全なものにはならないのである。

 この理由は、ちょうどスポーツにおいて団体競技には決して単独競技には存在しない性質が求められることと同じである。この性質とは言うまでもなく「チームワーク」である。すなわち団体競技ではそのチームの各メンバーが互いに協調しあえるかどうかが大きくそのチームの勝敗を左右するのである。それだけでなく団体競技にはそのチームにいろいろなタイプの選手が揃っており、かつ総合すれば各選手の能力がほぼ等しく、言わば「粒が揃っている」ことが求められるのである。このことはちょうど法則群においてそのメンバーの法則の重要度がほぼ等しからねばならないことと同じなのである。

「分類」に必須の条件…「名」と「体」の一致

 ところで、科学法則が「法則群」としては間違っていることは次のようにも解釈することができる。つまり、「法則群」としては間違っていることは法則の分類のしかたが間違っていることなのである。そして、法則群中の各メンバーが正しいことはつまりきちんとその法則が存在していることにすぎないのである。

 しかし、当然のことながら分類の対象となっているものがすべて実在していてもその分類が正しいことにはならないのである。なぜなら、あたりまえではあるが物事を分類するからには同じカテゴリーに分類されているものは互いに似ている必要があるからである。この理由は、言うまでもなく分類には物事をわかりやすく整理するという目的があるからである。

 言いかえると、分類にはそのカテゴリーがきちんと実体を表していなければならぬことが求められるのである。しかし、不幸なことにこのことは世間では意外に認識されておらず、学校教育を指導している官僚もやはりこのような社会で生まれ育ったので学校教育の指導のしかたも実にいいかげんなものとなるのである。そして、学校教育の有名な学者の考えならばたとえそれが間違いであっても鵜呑みにする病的な体質も元をただせばこのことが原因なのである。

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