「日本式経営」に対する誤解

 以前は「終身雇用」および「年功序列賃金」(およびその結果としての企業別労働組合)をその主な特徴とする「日本式経営」が海外でも高い評価を受け、この「日本式経営」を企業経営に取り入れるべきだとする意見(このことはもちろん日本国外での話である)まで存在したほどであった。しかし、後にこの「日本式経営」は日本の高度成長期(1950年〜1970年頃まで)のような急激な経済成長が数十年にわたって続くときにしか経営者にとっても労働者にとってもメリットが存在しないことが明らかとなったのである。したがって、現在では「日本式経営」は経済成長および人口増加(いずれも永久に続くはずがないものである)を前提とした経営システムであるために、日本国内でさえもきわめて評判が悪くなっている。

 つまり、「終身雇用」は産業構造の変化がない場合にのみその実行が可能なのである。なぜなら、「終身雇用」は文字通り一度就職した会社で肉体的、精神的に就労が困難となるまで一生働き続ける雇用制度であるために、これを雇用者側から見ると労働力が過剰になっても容易に解雇できないという問題を抱えているのである。したがって、当然のことながら倒産やリストラが頻繁に起こる経済情勢、すなわち産業構造の変化が激しい場合にはこの「終身雇用」なる雇用システムは実行不可能なのである。

 また、「年功序列賃金」に至ってはその企業が成長していなければまったく実行不可能なのである。なぜなら、「年功序列賃金」とは読んで字のごとく年々給料が上がって行く賃金体系であり、このことは労働者側から見ればまことに喜ばしいことではあるが、一方ではこの「年功序列賃金」を経営者側から見ると年々従業員に支払う人件費が増大してゆくことを意味しているのである。したがって、年々順調に売上が増えている企業、すなわち成長企業においてのみ「年功序列賃金」なる賃金体系が維持できるのである。

 また、この「年功序列賃金」は年齢が低くなるほどその数が多くなる人口構成をしている場合、すなわち人口が増加している場合にのみそれが実施できるのである。なぜなら、「年功序列賃金」においては年齢が高くなるほど賃金が高くなり、したがって全従業員の平均年齢が高いほど従業員全体の人件費が高くつくことを意味するからである。このことは、「ネズミ構」(会員を勧誘すればそれを勧誘した会員が金をもらえる組織。もちろん法律ではこの「ネズミ構」は認められていない。)が早かれ遅かれ必ず破綻することとまったく同じ理由なのである。すなわち、「ネズミ構」の会員は会員をある一定数以上加入させなければ自分が支払った会費以上の金をもらえず、したがって「ネズミ構」なる組織はその会員が増えなければ維持できず、したがって会員の増加が無限に続くことはあり得ないのでこの「ネズミ構」はいずれ破綻するのである。

 そして、高度成長期における日本ではこれら2つの条件がきっちりと満たされていたのである。つまり、高度成長期には年率10%を超える経済成長が20年にわたって続き、そのうえ業種間の成長率の格差が極めて小さく、言いかえるとどの業種もほぼ同じようにこの高度成長の恩恵にあずかれたのである。したがって、高度成長期の日本ではほとんどの企業が「終身雇用」および「年功序列賃金」を採用したほうが有利だっために多くの学者がこれを日本人の民族性に基づくもの(「日本式経営」なる呼称もここから来ている)であると勘違いしてしまったのである。

 つまり、戦前の日本には「日本式経営」の柱である「終身雇用」も「年功序列賃金」(およびその結果としての「企業共同体」)も存在しなかったのであるが、日本はもともと血縁社会であったためにこうした戦後の日本における企業の方針を日本人の集団志向に基づくものであると勘違いしたのであり、戦後は「企業」が太古からの「家族」の役目を担っているという学説(「企業共同体」なる呼称もここから来ている)はその最たるものである。そして、現在では日本でさえこの「日本式経営」を行っている企業はほとんどなくなっているが、この理由は言うまでもなく現在は高度成長期とは経済環境が大幅に変化したからである。

 この例からもわかるように、経済環境の違いを「文化」やさらには「民族」や「人種」の違いにすりかえて考えることは学者の犯している過ちの中でも最も多く見られるものの一つであり、またこの過ちは過去に幾度となく民族差別や人種差別につながったのである。例えば、白人が黒人よりも頭が良い理由は遺伝的に白人は黒人よりも脳が発達しているからであるという説(要するに、白人が黒人よりも脳が発達しているのはヒトが他の動物よりも脳が発達しているのとまったく同じ理由であるという学説である)がその代表例である。この誤った学説が白人が黒人を無差別に殺したり奴隷にしたりすることを正当化したのである。

 そして、この考えは「豊かさ」や「平等さ」などのような量的なものを「経済構造」さらには「主義」や「体制」のような質的なものにすりかえて考えることにもつながったのである。この明らかに間違った考えのために先述のとおりほとんどの学者が「社会主義」は「資本主義」とは根本的に(すなわち、質的に)違うものであり、したがっていくら社会主義国家の実態が明らかになっても「社会主義」は「資本主義」よりも平等であると信じて疑わなかったのである。

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