「社会主義」神話の形成と崩壊
以前は社会主義は階級がなく平等で資本家による民衆への搾取もない「理想の体制」であると信じられてきた。しかし、社会主義国家の実態が明らかになるにつれて社会主義はわれわれの通説とは裏腹に国家が民衆への搾取ばかりやっていて一握りの国家の指導者だけが並外れて豊かでそれ以外の民衆はきわめて貧しいという「最悪の不平等社会」であることが判明し、この「社会主義」が「平等」であるという「幻想」はあっけなく崩壊したのであった。
ところで、みなさんも御存知のとおり社会主義はマルクスが労働者が貧しいのは資本家が労働者を搾取しているためだと考え、したがって生産手段(工場など)を公有化すれば資本家が存在しなくなり、したがって貧困もなくなって平等な社会になるはずであると考えた結果生まれたものである。しかし、先述のとおりこのマルクスの幻想とは裏腹に社会主義経済は資本主義経済以上に不平等なものとなったのである。
この理由は、われわれが自然淘汰の結果生じた生物の常として自己の利害だけを考え、ほとんど公共の利益について注意を払うことがないからである。言いかえると、われわれが「神」でないがゆえに社会主義が実現しなかったのである。この理由は、言うまでもなく政府は自己の利益を追求せず、公共の利益だけを考えて行動すると信じられているからである。しかし、政府を操っているのがわれわれと同じく自己の利害だけで行動する生身の生物である以上、「平等」な社会主義経済など実現不可能なのである。なお、マルクスの考えたことは言うまでもなく「大きな政府」なる考え(御存知のとおり、ケインズも似たようなことを考えていた)であり、「公有化」なる表現においてもちろん「公」とは「政府」のことである。
それにもかかわらず、未だに社会主義は「平等」であると盲信され続けている。この理由は、言うまでもなく有名な学者の考えた理論ならばいくら「例外」が存在してもその「例外」を無視してそれを「科学理論」として認める科学界の病的な体質にあるのである。
資本主義は「主義」ではない
ところで、少し考えてみると皮肉なことにこの「社会主義」経済では「資本主義」経済以上に「資本主義」の欠陥が現れていることに気付くはずである。つまり、「社会主義」経済では政府を動かしている「政治家」や「官僚」がマルクスが言うところの「資本家」となってそれ以外の民衆を搾取しているのである。すなわち、強いものが弱いものを搾取するという行為(これがマルクスが言う意味での「資本主義」である)は「弱肉強食」および「優勝劣敗」という自然の法則から生まれるのであって政治や経済のしくみ(このような社会のしくみのことを「体制」と呼ぶ)とは一切関係がないのである。
したがって、この「資本主義」を「主義」と呼ぶことは明らかに誤りなのである。なぜなら、先述のとおり「資本主義」体制なるものはわれわれが意識してつくりあげなくても自然発生的に生じるものだからである。したがって、この「資本主義」を「資本経済」と呼んだほうが適切なのである。
ところで、この「主義」なる語は「体制」なる語と切っても切れない関係にあるのである。つまり、学者が考えた政治や経済のしくみが「主義」であり、この「主義」を後に革命などによって実現させると「体制」となるのである。そして、もちろんこの「社会主義」の場合はマルクスが考えたことが「主義」でレーニンがロシア革命で実現させたことが「体制」となるのである。
そのうえ、マルクスが考えたこととレーニンがロシア革命で実現させたことが一致しているかと言えばそうではないのである。
アダム・スミスの最大の過ち…「慈愛心」の否定
ところで、アダム・スミスの有名な台詞に「われわれがパンを食べてゆけるのはパン屋の慈愛心によってではなく、パン屋の利己心によってである」という文がある。しかし、この文章を注意深く読むと重大な誤りがあることに気付くであろう。この誤りとは、言うまでもなくパン屋に利己心のみがあって慈愛心がまったく存在しないのならば、そのパン屋は消費者をだまして、パンをなるべく小さくしようと(あるいは、そのパンを大きく見せようと)するはずであるということである。
このように、ビジネスにおいて経営者に慈愛心が存在しないのならば、この世界には詐欺や強盗以外のビジネスは存在しないことになり、したがってその関係者(消費者、従業員など)は損害を受けることはあっても利益を受けることはないはずである。
したがって、アダム・スミスの台詞の「慈愛心によってではなく」という表現を「慈愛心のみによってではなく」という部分否定の表現に改めねばならないのである。すなわち、アダム・スミスの最大の功績は言うまでもなく経営者と消費者の利害が対立しあうことなく共存共栄が可能であることを述べたということである。つまり、アダム・スミスは利己心が企業同志の競争を生み、この競争が各企業の経営効率を高めて、その結果社会全体のパイを増大させることを主張したわけである。しかし、当然のことながら全体のパイが増大することは決してその当事者同志でのパイの奪いあいが起こらないことを意味しないのである。
すなわち、一方が儲かることは必ず他の誰かが損することにつながるわけである。したがって、経営者が利潤を追求すればするほど他の企業の経営者や関係者は不利益をこうむり、したがって「法律」によって消費者や従業員などを保護する必要性が生じてくるわけである。
ところで、この社会に「法律」なるものが存在すること自体どんな経済体制においても多かれ少なかれ「社会主義」的な要素が存在していることの現れなのである(ここで言う「社会主義」とは公共の利益のためには私権を制限することが必要であるという主義である)。なぜなら、言うまでもなく「法律」をつくっているのは政府であり、また政府がこの「法律」をつくる理由は企業に対して社会に不利益となるような事業(詐欺など)をさせないためである。
また、この「政府」は他にも社会が必要としているが利潤が出ず、したがって民間が行わない事業も引き受けているのである。すなわち、「政府」なるものはこの世で唯一の「慈善事業」を行っている団体なのである。なぜなら、政府は公共の利益だけを考えて行動することができるからであり、それが可能なのは言うまでもなく政府が税金を取っているからである。
ただし、こうした「政府」の「慈愛心」に満ちた行為が可能なのはその政府を運営している政治家や官僚などの指導者が自己の権利だけを主張せず、社会全体の利益を考えて行動する場合だけであることを忘れてはならないのである。逆に言うと、社会主義国家が破綻したのはその指導者が自分だけに都合の良い政治を行ったからであり、多くの社会主義国家において指導者がそれに反対する者を虐殺したことはその現れである。
そして、われわれ人類にほとんど「慈愛心」なるものが存在しないことは現在でも大きな問題となっているのである。例をあげると、われわれはごく最近(20世紀前半)までたびたび戦争を行い、その度に多くの財産が失われ、多くの人々が死んできたことはその現れなのである。