ほとんど使い道がない「ハーディ・ワインベルクの法則」
「遺伝」の法則にはこの他にも(というよりも「唯一の遺伝の法則」と言ったほうが正確なのだが)「ハーディ・ワインベルクの法則」という法則が存在するのである。ただし、この法則は以下の前提条件を必要とするのである。
・個体数が無限大である
・自由に交配できる
・淘汰が起こらない
・突然変異が起こらない
そのうち「個体数が無限大である」については現実の生物の個体数が有限である以上決してこの前提条件は実現できないのである。しかし、考えてみれば「エントロピー増大則」もまた分子や原子が無限個存在していることを前提につくられているのである。しかし、現実には分子や原子の数が有限個であるのでつねに「エントロピー増大則」が成立するとは限らないのである。しかし、それでもわれわれが通常考えるスケールではそこにふくまれる分子や原子の数は充分多いのでほとんど1に近い確率でこの「エントロピー増大則」が成立しているのである。したがって、個体数が充分多ければ近似的にこの「ハーディ・ワインベルクの法則」は成り立つのである。
次に、「淘汰が起こらない」および「突然変異が起こらない」については「突然変異」と「淘汰」(「自然選択」とも呼ぶ)の2つが進化の主な原動力となっていることを思い出してほしい。つまり、この「ハーディ・ワインベルクの法則」は進化が起こらないことを前提とする法則なのである。
ところで、現実の生物界に「進化」が起こらない状況など存在するはずがないのである。したがって、この法則は決して実際にはそれが成立する状況が存在しない「幻の法則」なのである。この理由は、言うまでもなく生物(およびそれに付随する遺伝子)は物質とは異なって絶えず発生したり消滅したりするからである。そして、もちろん「突然変異」とは遺伝子の「発生」のことであり、一方「淘汰」は遺伝子の「消滅」のことなのである。そして、この「突然変異」と「淘汰」がうまく協力してはじめて「進化」という現象が可能となるのである。
「遺伝子」にも「保存則」が考えれる
このように、この「ハーディ・ワインベルクの法則」はその名のとおり「ハーディ」と「ワインベルク」が「進化」が起こらない状況を仮定して考え出された「机上の空論」にすぎないのである。しかし、それでもこの法則は生命科学では数少ないまともな法則の一つであり、したがってこの「ハーディ・ワインベルクの法則」は大変重要な法則の一つなのである。
なぜなら、この法則は「エネルギー保存則」や「電荷保存則」のいわば「遺伝子」版となっているからである。すなわち、言うまでもなく「エネルギー」などの物理量に対して保存則が成り立つ理由はそれらの物理量がその形態を変化させることはあっても決して「発生」することも「消滅」することも起こらないからである。そして、これらの保存則ではこのことがわざわざ「前提条件」として述べられていないがこの理由は言うまでもなく物理学では(エントロピーを除いて)どんな場合にでもこれらの保存則が成り立つからである。したがって、「エネルギー保存則」などにならってこの「ハーディ・ワインベルクの法則」を「遺伝子保存則」と呼ぶことができるのである。
また、この「遺伝子保存則」は先に述べた「遺伝子説」と同じく、生物界も物質界も同じ「基本原理」(「保存則」など)に従っていることを証明しているのである。そしてこの理由はもちろん生物が物質からできているからに他ならない。例えば、先述のとおり遺伝子は分子からできているのでその性質が分子と共通しているのはごく当然のことなのである。
そして、「エネルギー保存則」などとは違ってこの「遺伝子保存則」が成立しない理由は言うまでもなく生物が解放系だからである。つまり、生物は絶えずその外部と物質やエネルギーのやり取りをしており、またその結果として生物は(細胞、器官、個体、いずれの単位においても)絶えず発生したり消滅しているので決して生命現象に「保存則」など存在しないのである。
また、先述のとおり物理法則においても「エントロピー増大則」のような非保存則の存在が明らかとなったが、その「本家」はやはり生物界にあるのである。すなわち、物理的にはエネルギーは保存されるが、生物にとって重要なのはその総量ではなく利用価値なのである。つまり、「エントロピー増大則」によってエネルギーは利用しにくいものへと変化してゆくが、そのことが生物にとっては大問題となるのである。なぜなら、この事実はエネルギーは保存されるがその「価値」は決して保存されないことを意味するからである。そして、先述のとおりこのエネルギーの利用しやすさを表す量として「エクセルギー」なる物理量が考えられたのである。
また、以上のことから「価値」なるものはこの世界に生命(ついでに言うと「生物」なるものは「生命」という機能を持った物体のことであると定義されている)が存在してはじめて考えれる概念であることがわかるのである。つまり、「価値」なる概念は「利用」という行為が存在してはじめて定義できる概念であり、その「利用」なる行為ができるのは言うまでもなく「生命」なる機能を持った「生物」だけなのである。