「独立」妄想の崩壊…遺伝の連鎖現象

 先述のとおり、メンデルはすべての遺伝現象は互いに独立であると考えていた。そして、メンデルは誤ってこの遺伝の独立性を「遺伝の法則」のメンバーとして扱ったのであった。しかし、このすぐ後に遺伝現象が独立ではないケース(このケースのことを「連鎖」と呼ぶ)が発見され、このメンデルの「妄想」はあっけなく崩れたのであった。

 しかも、この遺伝の「連鎖」現象にも遺伝子の組み合わせの確率の偏りが大きいものと小さいもの(それぞれ、連鎖が強い、弱いという表現をする)があり、しかも2つの遺伝子対の組み合わせによってこの確率の偏りが決まることが明らかとなったのである。このような遺伝の連鎖の強さは「組換え率」(完全連鎖の場合を0、独立の場合を1/2とする。言うまでもなく連鎖が強いほど組換え率は小さくなる。)あるいは「連鎖率」(=1-「組換え率」*2)によって表すことができる。

 このように、メンデルが信じて疑わなかったとされる遺伝の「独立性」なる性質は、一見するとごくあたりまえの性質である。このことを理解するには、遺伝をコイン投げと対比させるとわかりやすい。すなわち、2枚のコインA、Bを別々に投げる場合を考えると、コインBにおいて表、裏が出る確率はコインAが出た目と関係なくそれぞれ1/2となる(このようなケースのことを「独立事象」と呼ぶ)。なお、コインAとコインBを入れ替えてももちろん同じことが言えるのである。

 しかし、2枚のコインA、Bを板にはりつけてその板ごとコインA、Bを投げると、何回投げてもこの2枚のコインは2枚とも表または裏が出るかあるいは1枚ずつ表と裏が出るケースしか起こらないのである。また、コインA、Bを重ね合わせてその2枚のコインを投げるとコインA、Bの目の出る確率はもう一方のコインの出た目によって大きく左右される。しかし、この場合には前例とは異なり偏った確率ではあるがコインA、Bの目の組み合わせが4通りすべて起こるのである。

 これら3つのケースはもちろんそれぞれ遺伝における「独立」、「完全連鎖」、「不完全連鎖」のケースに対応しているのである。ここで2枚のコインの目が出る確率が互いに独立でないケース(このケースのことを「従属事象」と呼ぶ)について考えると、コインの動きがもう一方のコインの動きに支配されていることがわかる。したがって、遺伝についても「連鎖」が起こるケースはそれらの2つの遺伝子が別々ではなく一緒に挙動するために起こると予想できるのである。

 さらに言うと、3つの遺伝子対A、B、Cが存在し、遺伝子対A、Bが連鎖している場合にはAとCが連鎖していればBとCも連鎖しており、一方AとCが独立であればBとCも独立であることが明らかとなったのである。したがって、遺伝の連鎖は各遺伝子がばらばらではなく、集団をつくって挙動するために起こるのだという仮説が立てられ、この遺伝子の集団が後に「染色体」と呼ばれるようになったのである。そして、2つの遺伝子対の連鎖が強いほど染色体上でこれら2つの遺伝子が近いところに位置しているという仮説が立てられ、「染色体地図」なるものが作られたのである。そしてこの後に、この「染色体」を直接見る方法が発見され、この「染色体」上の遺伝子の位置が「染色体地図」による予想とほとんど一致したのであった。

 以上のことから、実際には遺伝における「独立の法則」なる法則は存在しないことが明らかであろう。なぜなら、あたりまえのことであるが「法則」と名のつく限りはよほどのことがない限り「例外」など存在してはならないからである。そして、遺伝において連鎖が起こるケースは決して珍しいケースではなく、平均すると約10例に1例ぐらいの割合で見られるのである。それどころか、遺伝において連鎖が起こるケースが「スペシャルケース」であると決めつけることもできないのである。なぜなら、すべての遺伝が互いに独立であるということはすなわちすべての遺伝子が単独で挙動することを意味するからである。そして、遺伝子は全部で数万ほどあり、これらの遺伝子が単独で挙動することなど不可能であり、したがって「染色体」のような遺伝子のコロニーが必要となってくるのである。

もう一つの「遺伝の独立性」

 このように、遺伝という現象には「独立性」や「従属性」のような基本的な性質にさえも一般的な傾向が存在しないのである。この理由は、言うまでもなく社会現象をふくむ生命現象の一筋縄では行かない性質にある。すなわち、生命現象は「複雑系」の一種であり、この「複雑系」の最大の特徴なるものはその個性がきわめて強いことである。そして、「遺伝」ももちろん一種の生命現象であるからその個性が強く、したがって決して「法則」のようなすべてに共通する性質で表せるような代物ではないのである。

 そして、遺伝の「個性」なるものの例として先述のとおり遺伝には「独立性」および「従属性」という相反する2つの顔があり、そしてこれら2つの相反する性質は2つの遺伝子が同じ染色体に所属しているか否か、それのみによって決まるのである。

 つまり、メンデルの発見は遺伝に「法則性」なるものが存在することではなく、むしろ逆に「法則性」が存在しないことなのである。

 ところで、遺伝なる現象にはもう一つの「独立性」なる性質が存在するのである。このもう一つの「独立性」とは、個体がある配偶子に与える遺伝子の組み合わせは他の配偶子に与えられる遺伝子の組み合わせとはまったく関係がないことである。しかも、この配偶子間の「独立性」は遺伝子対間のケースとは異なり、どんな場合にも成立し、したがってまったく「例外」が存在しないのである。したがって、もし遺伝に「独立の法則」なる法則が存在するとすればこの法則は「遺伝子対」間ではなくむしろ「個体」間の「遺伝」の独立性のことなのである。

 もちろん学校教育ではこのもう一つの「独立の法則」は教えられておらず、したがってもう一つの「遺伝の独立性」は世間にはほとんど知られていないのである。しかし、この事実もやはり遺伝をコイン投げと比較させると理解しやすい。すなわち、ご存知のとおりコインの出る目の出る確率は前に出たコインの目とはまったく関係がないのである。このように独立事象にはその事象間に互いにつながりがないという共通した性質があるのである。しかも、「遺伝の独立性」に関しては先述のとおり個体間の「遺伝の独立性」には遺伝子対間のものとは異なって例外がまったく存在せず、したがって明らかにこちらのほうがはるかに重要なのである。したがって、個体間の「遺伝の独立性」だけが「遺伝の法則」として認められる資格をもっているのである。

メンデルも知っていた遺伝の連鎖現象

 そして、先述のとおりメンデルはえんどう豆を用いて遺伝の研究を行ったのであったが、ケプラーも火星の視運動を観測してその公転運動の研究を行ったことを思い出してほしい。ここで一見するとこの「えんどう豆」とメンデルとの関係はちょうど「火星」とケプラーとの関係によく似ているのである。しかし、「えんどう豆」には「火星」とは決定的に異なるところが存在しているのである。これは、「火星」の公転運動についての理論ははそのまま他の天体の公転運動にも適用できるが、一方先述のとおり「えんどう豆」の遺伝についての理論は他の生物の遺伝(正確に言うと「えんどう豆」のその他の遺伝にも)には適用できないということである。「天体」と「生物」とのこの大きな違いは、先述のとおり「生物」は「物質」や「天体」とは根本的に異なり、その「個性」がきわめて強いところからきているのである。

 しかも、実はメンデルはこの事実を隠していたが、遺伝が独立でないケースの存在を知っていたのであった。さらに言うとこのメンデルの研究したことはメンデルが生きている間はずっと無視され続け、世間でこのことが認められるようになったのはメンデルの死後であった。

 ところで、学校教育では「遺伝」なる現象には「連鎖」というケースも存在するということを認めておきながら遺伝について「独立の法則」(それももちろん遺伝子対間に関するもの)なる法則が存在することを教えるという、実に「支離滅裂」なことをやっているのである。それどころか、遺伝について独立なケースを先に教え、その例外として連鎖が生じるケースを教えているのである。

 このような教育内容では、遺伝が独立であるケースが本来のケースであると思いこんでしまう恐れがあるのである(先述のとおり、「独立」、「連鎖」どちらが本来のケースであるかは分からないのである。)。それにもかかわらずこのような間違った教育をやっている元凶は、やはり有名な学者が考えたことであればたとえそれが間違っていても鵜呑みにするという、学校教育の病的な体質であろう。このような学校教育の悪しき体質も実は、有名な学者の思想であれば無条件でそれを信じるといういわゆる「権威主義」の一例に過ぎないのである(この「権威主義」については他のところでもたくさん論じている)。

 また、先述のとおり遺伝子型と表現型との関係についても「完全顕性」の生じるケースを本来のケースであると教え、その後でその例外として「ポリジーン」などと共に「不完全顕性」を教えているのである。しかし、この「不完全顕性」こそが遺伝子型と表現型が一致する唯一のケースなのである。したがって、どう考えても「不完全顕性」を本来のケースであると教え、その後でその例外として「完全顕性」と「ポリジーン」を教えたほうが適切であろう。また、「遺伝の顕潜」を「遺伝のしくみ」と同じところで教えること自体が間違っているのである。なぜなら、言うまでもなく遺伝の顕潜は表現型に関する性質であり、したがって「不完全顕性」、「完全顕性」、「ポリジーン」などのケースは「遺伝のしくみ」ではなく「遺伝子型と表現型との関係」で教えなければならないからである。

 また、言うまでもなく「科学法則」にはそれを裏付け、証明する「科学理論」が必要不可欠である。したがって「科学法則」に「例外」が存在するということはその法則が間違っていることの証なのである。したがって、よほどのことがない限り「科学法則」には「例外」など存在してはいけないのである。しかし、学校教育では「遺伝の法則」のような例外だらけのものが堂々と「科学法則」としてまかり通っているのである。この理由は、もちろん学者がそのことをそれが間違っているにもかかわらず「法則」と認定したことおよび、その「法則」が間違っているにもかかわらずそれを修正も削除もせずに教えているという病的な学校教育を指導している官僚の無能ぶりである。

 そして、後述のとおり社会科学になるとそのことがさらにひどくなるのである。たとえば、多くの学者によって社会主義は「平等」であると宣伝され、多くの国々がその理論を信じ、多大な犠牲を払って社会主義体制をつくりあげてきたのであった。しかし、皮肉なことにこうして実現した社会主義国家はほとんどの場合資本主義国家よりもさらに不平等になっているのである。さらには、学校教育そのものが「政治」に牛耳られ、イデオロギーの宣伝に利用されていることがきわめて多いのである。さらに言うと、学校教育の歴史自体が宗教教育(というよりも「宗教の宣伝」あるいは「洗脳」と言ったほうが適切である)をメインに行っていた時代がほとんどを占めていたのである。したがって、学校教育が「権威主義」であるのは学校教育の歴史を考えればむしろ当然のことなのである。

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