「顕性・潜性」はむしろ「例外」である

 世間では、「顕性の法則」、「分離の法則」と「独立の法則」を合わせて「メンデルの遺伝の法則」(あるいは単に「メンデルの法則」)と呼ばれている。しかし、後述のとおりこの「メンデルの遺伝の法則」はその内のどれもが「法則」として認められるための条件を満たしていないのである。この理由は、この法則に例外がきわめて多いこともその一つではあるが、さらに根本的なこととして、生命現象(本書では、「社会現象」も「生命現象」にふくめる)がとても「法則」みたいなもので記述できるような単純明快なものでないことがその最大の理由としてあげられる。

 特に、「顕性の法則」に至ってはこの法則が正しい、正しくない以前の問題なのである。なぜなら、「法則」に「例外」が存在するだけでもこのことが「法則」としては失格となるのに、この「顕性の法則」はこの法則(本当は「法則」としては認められないのであるが慣習に従って「法則」と呼ぶことにする)では例外と見なされているケース(「不完全顕性」のこと)が実はむしろ本来のケースだからである。

 このことを説明すると、原則としてすべての遺伝子が個体に及ぼす影響の総和が「表現型」となって現われる、というのが実はこのセオリーの正しい表現なのである。ここで異なる機能をもつ遺伝子が重なったケ−スについてはこの原則が全面的にあてはまり、このケ−スがいわゆる「不完全顕性」のケ−スとなるのである。そしてこのケ−スでは「子」の表現型は2つの「親」の表現型の中間となる。なお、この表現型は「中間雑種」と呼ばれている。この「不完全顕性」のケ−スこそが実は(通説に反して)ジェネラルケ−スなのである。

 ただし機能をまったく持たない遺伝子も少なからず存在し、この遺伝子は同じ遺伝子が2つ重なった場合だけはっきりと「表現型」として現われるのである。この機能を持たない遺伝子のことを「潜性遺伝子」(これに対して機能を持つ遺伝子は「顕性遺伝子」という)といい、この「潜性遺伝子」が存在するケ−スがいわゆる「顕性、潜性」の生じるケ−スなのである。したがって、実は遺伝子の間に「顕潜関係」が生じるケ−スはむしろスペシャルケ−スなのである。

 なぜなら、遺伝において「顕潜」が生じるということはすなわち「親」の表現型が「子」に伝わらないこと、これを言いかえると子が親に似ないことを意味するからである。したがって、この事実は明らかに「子」が「親」に似るという遺伝の基本原則に反しているのである。また、同じくこの事実は一つの表現型に複数の遺伝子型が対応し、したがって表現型からはそれに対応する遺伝子型がわからないことをも物語っているのである。したがって、このことは世間では意外に知られていないことだが、遺伝において顕潜が生じるケースではその解釈が実に面倒となるのである。したがって、明らかにこのケースは遺伝の「教材」としては不適切なのである。

 そして、この「謎」は遺伝子の中には機能をまったく持たないものも存在するということが分かってはじめて解決されたのである。なぜなら、遺伝において顕潜が生じる理由は何も生物内に論理回路のような複雑なしくみが存在するからではないのである。すなわち、後述のとおり表現型の決定にはその遺伝子が存在するかどうかが重要であって、その遺伝子の個数はあまり重要ではないのである。

 さらに言うと、一つの表現型に複数の遺伝子対が関係しているケースも少なからず存在するのである。このケースが「同義遺伝子」、「補足遺伝子」や「抑制遺伝子」などのケースであり、これらを総称して「ポリジーン」と呼ばれている。このうち「同義遺伝子」は複数の遺伝子がまったく同じ機能を持っているケース、「補足遺伝子」、「抑制遺伝子」は複数の遺伝子がその機能は異なるけれども互いに干渉しあって1つの表現型を作りだすケースである(そのうち「補足遺伝子」、「抑制遺伝子」はそれぞれ各遺伝子が補いあうケース、打ち消しあうケースである。)。

「不完全顕性」こそが本来のケース

 しかし、いずれのケースにおいても各遺伝子の影響の総和が「表現型」となって現われることは共通しているのである。したがって、「顕性・潜性」が生じるケースは決して一般的なケースではなく、むしろ特別なケースであることは火を見るよりも明らかであろう。したがって、(実際メンデルが考えたことだが)この「顕性・潜性」が生じるケースを遺伝の一般的な傾向であると考え、さらにはこのことを「遺伝の法則」として認定したことはメンデルの犯した最大の過ちなのである。

 さらに悪いのは、言うまでもなく間違って「顕性・潜性」を遺伝における一般的なケースであると教え、「不完全顕性」のケ−スを例外であると教えている学校教育、およびそれを指導している官僚である。それどころか、学校教育では遺伝において顕潜が生じる理由すら教えていないのである。なぜなら、「顕潜」が生じる理由を教えると「不完全顕性」のケ−スが本来のケースであることがばれてしまうからである。一刻も早くこんな無茶苦茶な遺伝についての教育内容を改めてもらいたいものである。

 さらに言うと、機能をまったく持たない遺伝子が存在すれば必ず遺伝において「顕潜」が生じるかと言えばそうではないのである。たとえば、花びらの色を赤くする遺伝子、何の機能も持たない遺伝子(間違っても「花びらの色を白くする遺伝子」と言ってはならない)をそれぞれA、aとするとこの花にはAA、aa、Aaという3種類の遺伝子型が考えられる。このうちAA、aaについてはもちろんその花びらの色は何の問題もなくそれぞれ赤、白となるのである。しかしAaについてはその花びらの色はピンクになる場合も赤になる場合も両方起こりうるのである。

 この理由は、言うまでもなく色素の量が2倍になったからといって花びらの色の強さも2倍にはならないからである。そして、遺伝子Aの機能はもちろん花びらに色素を与えることである。したがって、当然のことながら遺伝子型AAの花びらにふくまれる色素の量は遺伝子型Aaの花びらの色素の量のほぼ2倍となる。しかし、先述のとおり色素の量と色の強さは比例しないので花びらの色素の量が2倍になってもその花びらの色はほとんど変わらないのである。しかし、花びらの色ではなくそこにふくまれる色素の量を「表現型」であると見なすとやはり遺伝子型Aaの花は「中間雑種」となるのである。したがって、色素の量の遺伝はもちろん本来の遺伝のケースである「不完全顕性」なのである。

 しかし、このケースをメンデルなど初期の遺伝学者は誤って「顕性・潜性」が生じるケースであると認識したのである。さらに悪いことには誤ってこのケースをジェネラルケ−スであると思いこみ、挙句の果てにはこの「顕性・潜性」を「遺伝の法則」として認めてしまったのである。そしてその原因はやはり特定の事象についての傾向をその一般的な傾向と考える科学界の悪しき「癖」にあるのである。

「特別」を「一般」と思いこむ愚行

 ところで、皆さんもご存知のとおりメンデルが遺伝の研究に用いた生物はえんどう豆であった。そして、メンデルは7つの遺伝子対について遺伝の研究を行ったのであった。この「えんどう豆」は自家受粉をしやすいという特徴があり、この特徴が遺伝の研究にとっては非常に都合の良い性質だったのである。しかし、一方ではメンデルが研究材料として用いた7つの遺伝子対はいずれもその解釈が面倒な「顕性、潜性」が生じるケースだったのである。

 これらの7つの遺伝子対はすべて「モノジーン」(遺伝子対と表現型が互いに1対1の対応をなしている場合をこう呼ぶ。「ポリジーン」の対義語)であり、このことはもちろん遺伝の研究にとってはきわめて好都合であった。しかし、先述のとおりこれらの7つの遺伝子対は(当時の科学水準では)いずれも「完全顕性」のケースだったのである。このことがメンデルに2つのきわめて重大な過ちを犯させたのであった。

 このうちの一つが、先に述べたメンデルが「顕性、潜性」が生じるケースを一般的なケースであると思い込んだことである。そしてもう一つが同じくメンデルが遺伝においてどうでもよい存在であるはずの「表現型」にこだわったことである。そしてさらには「表現型」に関する法則(先述のとおり、この法則自体間違っているが)を「遺伝の法則」のメンバーとして認め、この「表現型」を遺伝学の対象にしてしまったことである。

 なお、当時の観測水準では「顕性、潜性」が生じるケース(このケースを「完全顕性」と呼ぶ)が圧倒的多数であったのはまぎれもない事実である。しかし、先述の花びらの色の例からも分かるように、後に計測技術の進歩によってこのケースも実は中間雑種が生じるケースだと分かった例がいくらでも存在しているのである。そして、現在では厳密にはすべてのケースがこの「中間雑種」が生じる「不完全顕性」のケースであることが明らかとなっているのである。

 さらに言うと、もちろんこのことは偶然ではあるが先述の7つの遺伝子対はすべて互いに独立であった。したがって、メンデルはすべての遺伝子対が互いに独立であるはずだと推測し、これを「遺伝の法則」として認定したのであった(このことについては後で詳しく述べる)。しかし、そのすぐ後に遺伝が独立でない例(この現象を「連鎖」と呼ぶ)が発見され、したがってこのメンデルの推測は見事に外れたのであった。

 それにもかかわらず、未だにこの「顕性の法則」と「独立の法則」が「遺伝の法則」のメンバーとして認められていることには唖然とさせられる。言うまでもなくこの原因は有名な学者の考えたことならばたとえそれが間違っていても鵜呑みにするという科学界の病的な体質にあるのである。

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