あたりまえ過ぎる法則・・・熱力学第一法則
「熱」が関係する物理現象には2つの法則があると言われている。そのうちの一つが「熱量の変化はその物体に与えたエネルギーの総量に等しい」という法則で、もう一つが「熱は高温の物体から低温の物体へは何の変化もなしに移動できるが、その逆は不可能である」という意味の法則である。これらの法則はそれぞれ「エネルギー保存則」、「エントロピー増大則」に対応するもので「熱力学第一法則」、「同第二法則」とも呼ばれているがもちろん本書の読者には極力これらの呼称は使わないでもらいたい。
ところで、「熱力学第一法則」は「熱」がエネルギーの一種であることを表している法則であるが、「熱」が「エネルギー」であることぐらい言わば世間の「常識」であり、したがって少しでも教育を受けたことのある者ならば誰でもこのことは知っているのである。つまり、物理学ができたころには「熱」と「仕事」(物理学でいう「仕事」とは「力」*「変位」のことでわれわれが日常使っている「仕事」とは異なっている。)が同じ物理量であることは画期的な大発見であり、したがって当時はこの事実をわざわざ「法則」として述べる意義があったのである。しかし、後に「エネルギー保存則」なる物理法則が発見され、「熱」と「仕事」を統合して「エネルギー」なる概念を考えると都合が良いことがわかってからは「熱」が「エネルギー」の一種であることは科学界(物理学界のみならず化学界においても)の常識となり、この時点でこの「法則」はあたりまえ過ぎていちいち述べる意味のない法則となったのである。
ついでに言うと、以前は熱量の単位には「cal」(1gの水の温度を1℃上昇させるのに必要な熱量(=エネルギー)を1calと定義する)が用いられていたが、最近ではそれに代わって「J」(エネルギーの絶対単位、J=kg*m^2*s^-2、なお1cal=4.186Jである)なる単位が用いられるようになってきた。この理由は、言うまでもなく「熱」が「エネルギー」の一種であることがわかっているので、「J」という共通の単位を使ったほうがはるかに便利だからである。
熱力学第〇法則・・・もっとあたりまえ過ぎる法則
さらに、熱力学の法則にはこの他に「熱力学第〇法則」なる名称の法則もあるのである。この「熱力学第〇法則」は「物体Aと物体B、物体Bと物体Cがともに熱平衡状態にあるならば、物体Aと物体Cもまた熱平衡状態にある」という意味の法則である。ここで、「熱平衡状態」とはすなわち2つの物体の温度が等しい状態のことを指しているのである。したがって、「熱力学第〇法則」は「A=BかつB=CならばA=Cである」という数学で最も初歩の定理である「恒等の公理」の例にすぎないのである。
また、この法則は「温度の一意性」という「温度」が「物理量」としての「資格」をもつ最低限の性質をも表しているのである。つまり、2つの物体間の熱の移動する方向にはある法則性が存在し、この「法則性」なるものは2物体間の温度の上下関係によって決定され、ここに「温度」なる物理量を定義する必要性が生じてくるのである。すなわち、どのように定義してもその値が変わらないこと(このような性質を「一意性」という)はその量が「物理量」として物理学の対象となるための必要条件なのである。
しかし、考えてみれば「熱力学」なる学問は「熱平衡」およびそれを説明するために定義された「温度」なる概念の存在を前提としてつくられた論理体系なのである。したがって、「温度の一意性」なる性質およびそれを表す法則である「熱力学第〇法則」が成り立つことは熱力学の生い立ちから考えて当然のことなのである。したがって、このことをわざわざ「法則」として述べる必要性はまったく存在しないのである。
ほとんどの物理法則は「保存則」の「系」である
このように、ある法則が発見されたときにこの法則を「法則群」のメンバーとして採用したりするかどうかは「学者」の主観的な判断による影響が大きいのである。また、学校教育を指導している「官僚」はこの学者の独断に基づく考えをそのまま鵜呑みにする傾向がきわめて強いのである。たとえば、「ニュートンの力学の法則」はニュートンの独断に基づいてつくられた法則群であることは先述のとおりである。
そして、先述のとおり「ケプラーの法則」にもこれらの法則と同じくらいあたりまえの法則が存在するのである。この法則が「軌道面不変の法則」(天体は何度公転してもその公転軌道面が変化しない)なる法則である。しかし、この「軌道面不変の法則」は一般には「ケプラーの法則」のメンバーとして認められていない。したがって、学校教育でももちろんこの法則は教えられていない。しかし、この法則は「角運動量」なる物理量がベクトルであるために「大きさ」と「方向」なる2つの数が存在しなければその量を指定できない以上、「角運動量」の「方向」が一定であることを示す法則が必要不可欠なはずなのである。それなのにケプラーはこの法則を「あたりまえ」の一言で無視し、「ケプラーの法則」のメンバーとして採用しなかったのである。
しかし、ある法則が正しいとわかったときにこの法則を「あたりまえ」であると考えるか、それとも重要な法則であると考えるかは学者の主観によるところが大きいが、それでもこのことについてはある規則性が存在しているのである。この「規則性」とは、すなわちある法則を他の法則によって片付けれるか否か、言いかえるとある法則が他の法則の「系」になっているかどうかである。このことを法則の「独立性」と呼び、またこの「独立性」は法則が基本的なものか否かと関係しているので法則の「基本性」とも密接に関係しているのである。
すなわち、ほとんどの物理法則は「物体同志で互いに交換しあってもその総量はつねに一定となる」という「保存則」によって片付けられてしまうのである。これを言いかえると、実はほとんどの物理法則は「保存則」の「系」なのである。この理由は、言うまでもなく「保存」されることが物理現象の最大の特徴であり、かつ社会現象をもふくめた生命現象との最大の相違点だからである。