ほとんどの文法における品詞区分

 みなさんもご存知のとおり、語を(その意味とは関係なく)機能によって分ける方法が存在し、この方法によって分類されたカテゴリーは「品詞」と呼ばれている。そして、実在するほとんどの文法では語を@動詞A名詞B状態詞C接続詞D助詞の5種類の品詞に分類している。

 これらの5種類の品詞の機能について説明すると次のようになる。

@動詞…事物の動作・存在を表す

A名詞…事物の名を表し,またそれを指し示す

B状態詞…物事の性質・状態などを表す

C接続詞…語同志または前後の文節や文を結びつける

D助詞…名詞またはそれに準じる語に付き,その語の他の語に対する関係を示す

 なお、ほとんどの文法ではこの状態詞を「形容詞」と「副詞」に分け、語を動詞、名詞、形容詞、副詞、接続詞、助詞の6種類の品詞に分類するという説をとっているが、ほとんどの副詞は形容詞から転成したものであるので形容詞と副詞を合わせて一つの品詞(状態詞)としたほうがはるかに合理的である。

 また、当然のことながら助動詞は動詞、代名詞は名詞、冠詞・数詞は形容詞、関係詞は接続詞のそれぞれ一種であると見なされている。さらに言うと、西洋文法では助詞にあたる品詞は通常「前置詞」と呼ばれているが、もちろんこの前置詞も「助詞」の一種である。なお、品詞にはその他に「間投詞」があるが、この間投詞は文のどの要素にもなれないので文法で扱う品詞からは除外されている。

 ところで、これらの品詞を大きく分けると「自立詞」と「付属詞」の2つに分類することができる。このうち、「自立詞」とは主に意味を担う品詞のことで、先述の@動詞A名詞B状態詞がこれに当てはまる。それに対して、「付属詞」とは主に機能を担い、つねに自立詞に付属して用いられる品詞のことで、先述のC接続詞D助詞がこれに当てはまる。

 そして、このように品詞を「自立詞」と「付属詞」とに分ける考え方のルーツは、言葉を「詞」(物事を表している語で、言いかえると文中で意味を担っている部分のこと)および「辞」(他の語との関係を表している語で、言いかえると文中で機能を担っている部分のこと)に分けるやり方である。つまり、「自立詞」とはすなわち文において「詞」となりうる語のことで、一方「付属詞」とは「辞」となりうる語のことである。

 そして、先述のとおり語の「意味」を扱うのが「意味論」であり、それに対して「機能」を扱うのが「統語論」である。つまり、これらの事実はちょうど産業を大きく分けると物を採ったり組み立てたりする産業とそれを運んだり売ったりする産業の2つに分類され、またこれらの産業が両方とも存在してはじめて経済が成り立つように、言語においても「詞」と「辞」の両方が存在してはじめて他の者に意味を伝えることが可能となることを示しているのである。そして、このことによって文法までもが意味を重視する考え方(意味論)と機能を重視する考え方(統語論)の2つに分けられているのである。

接続詞は「自立詞」ではなく「付属詞」である

 ところで、ご存知のとおり国文法における品詞の分類のしかたは西洋文法(普遍文法も大体同じ)のそれとはかなり異なっている。つまり、国文法では語を@動詞A形容詞B形容動詞C名詞D代名詞E副詞F連体詞G接続詞H感動詞I助動詞J助詞の11種類の品詞に分け、さらに助詞を@格助詞A接続助詞B副助詞C終助詞の4つに分けている。さらに、これらの品詞を大きく「自立詞」と「付属詞」とに分け、上記の品詞のうち@動詞A形容詞B形容動詞C名詞D代名詞E副詞F連体詞G接続詞H感動詞を「自立詞」、I助動詞J助詞を「付属詞」にそれぞれ分けている。

 しかし、この分け方を見てわれわれは以下のことにすぐ気付くはずである。まず、国文法での品詞の分け方は西洋文法や普遍文法の分け方よりもはるかにカテゴリーの数が多く、またその結果として国文法は西洋文法や普遍文法よりもはるかに難解な文法となっていることに気付くであろう。

 さらに、このことを詳しく考えてみると国文法が西洋文法や普遍文法と特に大きく食い違っているところは形容詞と接続詞に関するところであることに気付くはずである。つまり、西洋文法などでの形容詞にあたるものが国文法での分け方では「形容詞」、「連体詞」および「形容動詞」から動詞「ある」を除いたもの(なぜ「形容動詞」から「ある」を除く必要があるかは後で詳しく述べる)の合計3つ存在しているのである。また、西洋文法での接続詞にあたるものは「接続詞」および「接続助詞」(国文法ではこれは「助詞」の一種とみなされているがこれは明らかに誤りである)の2つ存在している。

 しかも、西洋文法や普遍文法では接続詞は「付属詞」に分類されているが、国文法では西洋文法などとは異なって接続詞は「自立詞」に分類されている。つまり、以上のことから国文法では品詞を分類するときにその機能をあまり重視していないことがわかる。

 このことについて具体例をあげると、

@太陽は地球に近い。それで、(太陽は)明るく見える。

A太陽は地球に近いので、(太陽は)明るく見える。

これらの2つの文の意味はまったく同じである。しかし、上の2つの文には文章が句点(”。”のこと)で区切られているか否かの相異がある。そして、この相異は言うまでもなく@における「それで(接続詞)」とAにおける「ので(接続助詞)」との形態の相異に起因している。つまり、日本語には2つの文を結びつけるときに接続詞を用いる場合にはそれらの2つの文を句点で区切らねばならないが、それに対して接続助詞を用いる場合にはそれらの2つの文を区切らずに続けて書かねばならないという決まりがあるのである。

 そして、国文法では品詞を分けるときにその機能よりもはるかに形態(ここでいう「形態」とは語を続けて書くかそれとも離して書くかの違い)を重視しているために接続詞のように機能の面では完全に付属詞である品詞にもかかわらず誤ってそれを自立詞に分類してしまったのである。そして、国文法のこのような品詞分類のしかたが国文法を西洋文法や普遍文法とは似ても似つかぬ、実に難解で普遍性のまったくない文法にしてしまった元凶である。

品詞分類は「機能」のみで行うべきである

 ところで、こうした「形態」重視の誤った品詞分類はもちろん接続詞や接続助詞のみの問題ではないし、また国文法のみの問題でもないのである。たとえば、国文法では西洋諸語の助動詞(先述のとおりこの「助動詞」は動詞の一種と見なされている)にあたるものは「動詞」および「助動詞」の2つ存在し、このうち西洋諸語における助動詞のような使い方をされている動詞は「補助動詞」と呼ばれている。(なお、厳密にいうと助動詞のような機能をもっている語には動詞以外に形容詞があり、これらを総称して「補助用言」と呼んでいる。)

 そして、日本語におけるこの「助動詞」と「補助動詞」の相異はやはり接続詞と接続助詞の場合と同じくそれを続けて書くかそれとも離して書くかの違いである。つまり、助動詞を用いる場合にはその直前の動詞に続けて書くが、補助動詞を用いる場合にはその直前の動詞との間に”て”を挿入し、補助動詞をそれと離して書くという相異がある。そして、この「助動詞」と「補助動詞」の機能はまったく同じであるにもかかわらず、「助動詞」は「付属詞」に、一方「補助動詞」は「自立詞」に分類されている。この理由は、接続詞と接続助詞の場合とまったく同様に国文法における品詞の分類がその機能によってではなく、形態によって行われているためである。

 さらに言うと、日本語の動詞にはその他に「複合動詞」(2つの動詞の結合によってできた動詞。「釣り合う」、「思い出す」などがその例。)があるが、この「複合動詞」は補助動詞とその直前の動詞との間にあった”て”が脱落して生じたものである。それにもかかわらず、国文法の扱いではこの複合動詞は2つではなく1つの単語であると見なされている。つまり、国文法では複合動詞を構成している動詞は自立詞どころか独立した単語とさえ認められていないのである。

 ところで、複合動詞のように複数の語の結合によってできた語は「熟語」と呼ばれているが、この「熟語」なる語はその起源の面でも構造の面でも意味の面でも完全に複数の語である。それにもかかわらず、国文法をふくむほとんどの文法では誤ってこの「熟語」を複数ではなく1つの単語であると考えている。そして、このことに関しては西洋文法も国文法と五十歩百歩である。

 このことについて具体例をあげると、英語では準動詞(動詞から派生し、動詞以外の品詞の働きを持つ語を「準動詞」と呼ぶ。)には@不定詞A動名詞B分詞があるが、このうち不定詞につくtoは独立した単語であると見なされている。(ただし、このtoはどの品詞にも分類不可能である。)一方、動名詞や分詞はそれ全体で1つの単語であると見なされている。

 しかし、動名詞や分詞はいずれも元の動詞に「〜ing」をつければ作ることができる。そして、考えてみると不定詞につく「to」の機能はちょうど動名詞や分詞の「〜ing」の機能と同じであることがわかる。つまり、不定詞の「to」も動名詞や分詞の「〜ing」も動詞を準動詞に変える役目をしているのである。

 それにもかかわらず、不定詞の「to」は独立した語であると考えられ、それに対して動名詞や分詞の「〜ing」は独立した語ではなく接辞であると考えられている。この理由は、国文法の場合と同じく独立した単語であるかそれとも単語の一部であるかの判断がその機能によってではなく、形態(この「形態」とは国文法と同じく語を続けて書くかそれとも離して書くかの違い)によって行われているためである。そして、このことは文法独自の考え方であり、やはりこのことによって文法が普遍性のない文法になっているのである。

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