主語は「修飾語」の一種である

 本書を読んでいるみなさんはすでに気付いていることかも知れないが、実は主語は「修飾語」の一種にすぎないのである。なぜなら、主語の役目はその動作をだれの動作であるか「限定」することであり、言うまでもなくこの「限定」なる用法は「修飾」なる用法の一種であるからである。したがって、この「主語」の用法はまぎれもなく「修飾語」の用法である。

 ところで、文法学ではこのように語句が他の語句を修飾することを一般化して「係る」と表現する。

 それにもかかわらず、西洋文法でも国文法でもこの「主語」を動詞などと同じく文にとって必須の要素の一つとして扱い、決して「修飾語」の一種としてかたづけたりしていないのである。ところで、西洋文法では目的語や補語も主語と同様に文の必須の要素として扱われているが、国文法では目的語や補語は「修飾語」の一種としてかたづけられているのである。このように、文法にもいろいろな説があってその内部でも意見の対立が見られる。

 なお、断わっておくが上記のような西洋文法と国文法の考え方の相異は慣習上のものであって、決して西洋諸語と日本語の構造の違いを反映したものではない。すなわち、このことは後で詳しく説明することであるが文法は言語の中でも最も共通性の高い要素であり、したがって個々の言語の事情にあわせた文法など存在しえないのである。

 さらに言うと、西洋諸語に対する文法としてつくられた西洋文法は日本語の文法である国文法よりもずっと主語を特別扱いしやすい環境下におかれているはずである。それにもかかわらず、むしろ国文法のほうが主語を特別扱いしているのは両者の考え方の相異が単に慣習上によるものにすぎないことの証であり、個々の言語の事情にあわせた文法が存在しえないことの傍証である。

最も偉い修飾語…これが主語の「真」の地位

 以上のことから、文における主語の地位はちょうど会社における社長の地位に似ていることがわかる。つまり、このことは意外に知られていないことではあるが、会社において「主役」となっているのは他ならぬ「出資者」であり、株式会社の場合は株主がこの会社の出資者となるのである。

 そして、会社の方針を決めることができる者は出資者のみであり、いかなる理由があっても出資者でない者はその会社に命令することはできないのである。したがって、会社にとって「従業員」なるものは単なる関係者にすぎず、したがって俗に「社長」と呼ばれている者の正体は単に「従業員の中で最も偉い者」にすぎないのである。

 したがって、社長の役目は”会社の方針を決める”ことでは決してなく、”他の従業員に命令する”ことである。しかし、現実にはほとんどの社長が自分が従業員の一種にすぎないことを忘れて”自分こそが会社の主である”と勝手に思いこんでおり、また社会もこの社長の「妄想」を容認しているのである。

 しかし、ここで気付いてもらいたいことがある。このこととは、出資者は自らの意志でいとも簡単に社長をやめさせることができるが、その逆に絶対に社長は出資者をやめさせることができないという事実である。この理由は、言うまでもなく出資者はその出資比率に応じてその会社に命令する権利をもっており、もちろんその中にその会社の従業員をやめさせる権利もふくまれているからである。

 そして、この「社長」のように小さなグループの中で最も重要なものにすぎないのにあたかもすべての中で最も重要であるがごとく勘違いされているのが他ならぬ「主語」である。すなわち、確かに主語は同じく動詞を修飾している目的語や副詞よりは重要かもしれないが、だからと言ってそれによって修飾されている動詞よりも重要なはずは絶対にありえないのである。以上のことから、文を会社に例えると主語は社長に、動詞は出資者にそれぞれ例えることができ、会社の中で「出資者」が最も重要であるように文の中で最も重要なのはもちろん「動詞」である。

「首語」と呼べるのはもちろん動詞である

 ところで、「首都」は必ずしも大都市であるとは限らないのである。すなわち、「首都」なるものの定義はその規模が大きいことではなくその国(または地方自治体)の政治を行う場所があることである。そして、この「首都」であるための条件さえ満たせばアメリカ合州国、カナダやオーストラリアなどの首都がそうであるようにたとえそれが小都市であってもちゃんと「首都」になることができるのである。

 そして、会社においてこの「首都」にあたるものは言うまでもなく「本社」である。つまり、「本社」なるものはやはりその物理的規模とは関係なくその会社の方針を決めるところであると定義されている。したがって、会社の中で「本社」が最も大きい建物であるとは限らず、実際ほとんどの会社では本社よりも工場のほうがはるかに大きいのである。

 ところで、間違ってもこの「首都」を「主都」とは書かないが、この理由は「首」と「主」2つの漢字の意味がそれぞれ異なっているからである。つまり、「首」には「最も重要なもの」という意味があるが(したがって、「首」には「1つしか存在しない」という意味もある。)「主」にはそのような意味はなく単に「重要なもの」という意味しかないのである。

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