「統語論」と「意味論」…異なる2つの考え

 これまでに述べたことから、大きく分けるとわれわれの主語についての考え方には、

@主語は修飾語の一種にすぎず、したがって決して文の中で主語は特別な語ではなく、したがって文にとって主語は必須のものではない。

A主語は動作の主体を表す語であり、したがって文の中で主語は特別な語であり、また必須のものである。

以上2種類の考え方が存在することがわかる。

 ここで@の考え方は文における語同志の関係について考える考え方で、「統語論」と呼ばれている。それに対して、Aの考え方は語の表している意味について考える考え方で、「意味論」と呼ばれている。

 ここで重要なことは、「主語」、「目的語」や「補語」は意味論の用語であり、それに対して「修飾語」は統語論の用語であるということである。つまり、動詞を修飾する語には主語、目的語、補語、副詞(句、節)などがあり、意味論ではそれぞれを個別に考えるが、それに対して統語論ではそれらを一括して「修飾語」としてかたづけてしまうのである。

 言いかえると、意味論では語を「多様」なものであると見なし、一方統語論では語を「一様」なものであると見なすのである。以上のことをまとめると、意味論の考え方は「具体的」であり、それに対して統語論の考え方は「形式的」ということである。

「意味上の〜」が「文法上の〜」であるとは限らない

 ところで、この統語論」はまさに文法上の考え方のことである。この理由は、「文法」なるものは語の構造や機能を問題にするが、この語の機能なるものが他の語との関係と密接にかかわっており、また語の構造はその起源(語源)と深くかかわっているからである。

 このことについて例をあげると、われわれは動詞の否定、使役、可能などについて述べるときに「文法上の〜」と「意味上の〜」の2つの表現を使い分けている。さらに言うと、このうち「文法上の〜」は必ず「意味上の〜」にもあてはまるがその逆に「意味上の〜」は「文法上の〜」にはあてはまらないことが多い。

 具体例をあげると、動詞「ある」の文法上の否定は「あらず」もしくは「あらない」であるがこのうち「あらず」については以前は頻繁に用いられていたが現在ではほとんど用いられておらず、「あらない」に至っては昔も今もまったくと言ってよいほど用いられていない。

 この理由は、言うまでもなく「ある」の否定には通常「なし」(現代語では「ない」となる)を用いるので「あらず」や「あらない」の出る幕がないためである。ここで「なし」は「ある」の意味上の否定にはなっているが決して文法上の否定にはなっていないことに注意してほしい。

 なぜなら、「なし(ない)」は「ある」とはまったく独立に発生した語であり、したがって「なし」は「ある」とはまったく起源の異なる語であるからである。それに対して、「あらず」や「あらない」は「ある」に助動詞「ず」や「ない」(この「ない」は「ある」の意味上の否定を表す「ない」とは別の語であることに注意してほしい。)をつけたものであり、したがって「あらず」や「あらない」は「ある」とは起源を同じくする語である。

 言いかえると、意味さえ同じであれば「意味上の〜」にはあてはまるが、それに加えて起源や構造も同じでなければ「文法上の〜」にはあてはまらないのである。つまり、「意味上の〜」は「〜と同義の〜」なる意味であり、一方「文法上の〜」は「〜と同系(起源が同じであること)の〜」なる意味である。

使用頻度を問題にしないことが「文法」らしい考え方

 他の例では、動詞「ある」の文法上の使役は「あらせる」となるはずであるが、実際にはこの「あらせる」は昔も今もほとんど用いられていない。この理由は、「あらない」の場合と同じく「ある」の使役には通常「作る」を用いるので「あらせる」の出る幕がないためである。

 もう一つの例では、動詞「する」の文法上の可能は「せられる」、「せれる」もしくは「される」となるはずであるが、やはりこれらの表現は「せられる」を除けばまったくと言ってよいほど用いられていない。

 この理由は、みなさんもご存知のとおり「する」(この動詞には@(漠然とした動作を)行なう(英訳すれば「do」となる) A(あるものを)別の状態に変える(英訳すれば「make」となる) の2種類の意味があるがここで問題になっているのはもちろん@の意味だけである。)の可能には通常「できる」が用いられているためである。

 ただし、当然のことではあるがこのように通常意味上の否定、使役、可能などが用いられているためにその文法上の表現が用いられない場合に絶対にその表現が存在しないと考えてはならないのである。なぜなら、その表現が用いられないということはつまりわれわれにはその表現が目に見えないということであって決してそれが存在しないことを意味しないからである。また、このことを言いかえるとほとんど用いられない表現とはすなわち使用頻度がきわめて低い表現のことであって、これは同時にその表現がほとんど目に見えないことをも意味している。

 しかし、あたりまえではあるがそれが目に見えようが見えまいがそれが存在しているという事実は何ら変わらないし、また疑われることもない。つまり、「文法」なる学問は語やそれを用いた表現が存在するかどうかを問題にする学問であって、決してそれらがどれくらいの頻度で用いられているかを問題にする学問ではないのである。そして、文法のこのような考え方こそが文法が形式的」であり、また形式的」(ここで言う「形式的」とは現実を無視して理論のみを追求することであり、したがってこれを「理論的」と言いかえてもよい。)であらねばならないと言われるゆえんである。

 しかし、残念なことに現存の文法について考えてみるとほとんどの文法ではこうした文法の「本質」に反して使用頻度の低い語や表現が省略されており、わが国文法もこのような文法らしくない「悪い文法」の一つである。(このことについてはこの章の後半で詳しく述べる)

 つまり、使用頻度の低い語や表現を省略するのはこの文法(本当はこのことをやった時点で「文法」と名乗る資格を失うのであるが、慣習に従ってこれを「文法」と呼ぶことにする。)が実用面を重視しているためであるが、このような考え方が実用面を無視して理論のみを追求する文法の本質と相容れないのである。

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