主語の特別扱い…これこそが西洋諸語の最大の欠陥
しかし、現実に目を向けると「文において最も大切な語は『動詞』である」という普遍文法の絶対的なセオリーを無視して動詞の形がその主語によって変化し、それどころかこの主語が存在しなければ文そのものが作れないという実に奇怪な言語が存在しているのである。この奇怪な言語とは、言うまでもなく英語、スペイン語、ロシア語などインドヨーロッパ語族に属している言語である。
つまり、英語などでは主語は目的語などとは違って文章の冒頭に置かれ、さらに悪いことにはご存知のとおり英語では通常の動詞の現在形で主語が3人称単数であるときにはその語尾に-sがつくというふうに主語が動詞を支配しているのである。しかも、西洋諸語の中では英語は動詞の変化がまだ単純なほうでこれがロシア語やドイツ語などになると主語の数および人称ごとに動詞の形が変化するのである。
しかも、英語などは命令文などごく一部の文を除けば文には必ず主語が必要となる。したがって、英語には「It rains」などのようなその主語が和訳できない文章が存在するのである。つまり、「It rains」を和訳すると「雨が降る」となるが、この中の「rains」には「雨が降る」という意味があるのである。したがって、この文の「It」は文には必ず主語を必要とするという英語の事情に合わせるために無理やり挿入された語にすぎないである(このような文法上の要請にこたえるために主語の位置に無理やり挿入された語を「形式主語」と呼ぶ)。
さらに言うと、この「It rains」なる文と同じ意味をもつ文に「Weather is rainy」なる文があるが、これを和訳するときには通常その主語を省略して「雨である」と訳す。別の例をあげると、「They speak English in America」を和訳するときにもやはり主語を省略して「アメリカでは英語を話している」というふうに訳されるのである。
つまり、西洋諸語には日本語とは異なってその主語を省略したくてもできないというきわめて重大な欠陥が存在しているのである。言いかえると、西洋諸語ではその文において主語が不当にのさばっており、この原因は言うまでもなく普遍文法のセオリーを無視して主語が特別扱いされているからである。
解説…しかし、実は先述の「罪を憎んで人を憎まず」なる格言は旧約聖書の言葉であって、ヨーロッパ経由で東洋にも近代になって入った格言であることをも忘れてはならない。つまり、主語が特別扱いされている西洋諸語の文法はヨーロッパでさまざまな思想が発達するよりはるか以前に成立したものであり、言いかえると言語の基本的な骨格は思想以前に成立したものであって、後に出来た思想によって変えることはほとんど不可能なのである。
西洋諸語のその他の欠陥
ところで、西洋諸語にはその主語が省略できないこと以外にもさまざまな欠点がある。この一つが、西洋諸語の文は「主語+動詞+(目的語、補語)+副詞(句、節)」という語順以外は認められておらず、原則としてこの語順を変更することができないということである。それに対して、日本語では主語を示すには「が」、目的語を示すには「を」なる助詞を用いるので動詞が文末に来るのを除けば語順が自由に決められるのである。
また、西洋諸語では形容詞が名詞を修飾するときには原則として名詞の前に形容詞が来るが、逆に形容詞句や形容詞節が名詞を修飾するときには名詞の後に形容詞が来、また副詞が動詞を修飾するときにも動詞の後に副詞が来る。このように西洋諸語では修飾語が被修飾語(修飾語によって修飾される語句を「被修飾語」と呼ぶ)の前に来ることも後に来ることもあってそれらの位置関係が一定でないのである。
それに対してご存知のとおり日本語では必ず修飾語はその被修飾語の前に来る。この事実は同時に日本語では語順のみでその語句がどの語の修飾語であるか判別できることを意味している。しかし、西洋諸語とは異なって修飾語同志の語順は自由に決めることができる(なお、実を言うと主語も目的語も補語も動詞の修飾語である)。そして、以上のような日本語と西洋諸語との相異は主に助詞によって語同志の関係が決まる(このような性質をもつ言語を「膠着語」と呼ぶ)ウラルアルタイ語族(言うまでもなく日本語もこの一種である)と語形の変化によって語同志の関係が決まる(このような性質をもつ言語を「屈折語」と呼ぶ)インドヨーロッパ語族の相異である。
このように西洋諸語と比較してはるかに優れた性質をもっている日本語であるが、やはりこの日本語にも少ないながらも欠点が存在している。この欠点とは、修飾語が被修飾語の前に来るがゆえに大事な語句(くどいほど言うが、文において最も大事な語は動詞である)ほど後回しにされるということである。したがって、日本語には最後まで聞かなければ意味がわからないという欠点が存在している(日本語のこのような欠点は「速報性に欠ける」ということである)。したがって、日本語はこのような性質をもつがゆえに災害時など速報性を要するコミュニケーションには不向きなのである。
したがって、日本語とは逆に常に修飾語がその被修飾語の後に来る言語(もちろん、西洋諸語のような主語によって動詞の形が変化する言語は問題外である)が存在すればそれは完壁な言語となるはずである。もちろん、実際にはこのような完壁な言語は存在しないが、われわれが言語を良くしようと努力すれば完壁な言語だって作れるはずであり(われわれにほとんど言語を良くしようとする気がないことを証明するのが本書の目的ではあるが)、また将来われわれ人類はそうしてもらいたいものである。
受動態…主語を省略するための「裏技」
みなさんもご存知のとおり、受動態ではもとの文(このような受動態でない文を「能動態」と呼ぶ)の目的語が主語となるが、このときほとんどの場合能動態の文における主語にあたる語句は省略される。この理由は、どんな言語においても受動態は主語が不明である場合に用いられるものであり、したがって主語が明確であるときにはわざわざこの受動態を用いないからである。
例をあげると、先述の「They speak English in America」よりもその受動態にあたる「English is spoken in America」のほうがはるかによく用いられている。また、このことを日本語と比較するとその日本語訳にあたる「アメリカでは英語を話している」がその受動態である「アメリカでは英語が話されている」と同じくらいよく用いられており、ここにも主語が省略できる日本語と省略できない英語との違いが表れている。
しかし、この受動態は主語を省略したいときに用いられることはどの言語にも共通している。さらに言えば、西洋諸語では日本語よりもはるかに受動態の使用頻度が高いが、この原因は西洋諸語ではその主語が省略できないこと以外にもう一つ存在している。このもう一つの原因とは、西洋諸語は日本語よりもはるかに他動詞(目的語を必要とする動詞を「他動詞」、目的語を必要としない動詞を「自動詞」とそれぞれ呼ぶ。)の比率が高く、しかも日本語では自動詞の主語にあたる語句が西洋諸語では他動詞の目的語となっているケースがきわめて多いためである。
例をあげると、「tire」には「疲れさせる」という意味があるが、実際には「tire」よりもその受動態にあたる「be tired」のほうがはるかによく用いられている。この理由は、言うまでもなくほとんどの場合この「tire」の主語が不明であるからである。