「罪を憎んで人を憎まず」とは…
言うまでもないことではあるが、「罪を憎んで人を憎まず」の意味は「罪を憎んでも決してそれをやった人を憎まない」であり、したがってこの格言の意味することは要するに「動詞を憎んでもその主語を憎まない」ということである。このように、文章において最も大切な語はもちろん「動詞」であり、「主語」なるものはそれがなくても困らない言わばどうでもよい存在なのである。
例をあげると、ご存知のとおり法律やルールはその対象となる人物がどんな人物であるかは一切問わずに、実際にやった行為のみでそれに対する処置が定められているのである。ここでもし法律やルールにおいてその対象がどんな人物であるか問えばそれは一大事となる。たとえば、スポーツにおいて審判が特定の競技者に有利な判定を繰り返すとその競技者、審判の双方ともに「買収」(ひそかに賄賂などを与えて自分に有利な判定をさせること)なる罪に問われることになるが、この理由は言うまでもなくスポーツにおいて絶対にルールは競技者がどんな人物であるかを問ってはいけないからである。
別の例では、犯罪者は政府によって懲役や罰金などの刑罰を受けるが、犯罪者がそれらの刑罰を受けた後に再び犯罪をおかしてもそれに対する刑罰が以前に犯罪をおかしていない者のそれよりも重くなることは絶対にない。この理由は、犯罪者はそれに対する刑罰を受けた時点でその償いが完了しているためである。したがって、犯罪者が刑罰を受けるときに以前に犯して、その償いが完了した犯罪(「前科」と呼ぶ)について問われることは絶対にないし、また絶対に問ってはならないのである。
それにもかかわらず、われわれの暮らしている社会では前科者はたとえその償いが完了していてもほとんど犯罪者に等しい扱いを受け、大衆から白い目で見られているのである。このように、法律上は「罪を憎んで人を憎まず」となっていても実際にはこの格言とは逆に「人を憎んで罪を憎まず」となっているのである。そして、英語やドイツ語などでは以上のような主語がどんな人物であるかを問う考え方(言うまでもないことではあるが、この考え方は間違った考え方である。)が文法にも反映され(このことに関しては後に何度でも述べる)、主語が動詞をもふくめた文全体を支配するという実に無荼苦荼な言語となっているのである。
「こと」が主役であるからこそ「ことば」である
ご存知のとおり、「言葉」の語源は「こと(事)」+「は(葉)」であり、この事実はまぎれもなくわれわれが言葉を用いてコミュニケーションをする目的がわれわれの住んでいる世界で起こっている現象を表現し、それを他の者に伝えることであることを示している。
ところで、「こと(現象)」を表す品詞は「動詞」であり、一方「もの(物質)」を表す品詞は「名詞」である。したがって、このことは文において「主役」となっている語は言うまでもなく「動詞」であり、「名詞」はそれが「主語」となっていようといまいと「協役」にすぎないことを意味しているのである。それどころか、動詞さえ存在していればたとえ主語がなくても(不完全ではあるが)ちゃんと文章が作れるのである。
この理由は、言語の役目の一つが物事の抽象化であるからである。例をあげると、われわれは人、犬、牛、魚、昆虫、植物などを総称して「生物」と呼んでいるが、この理由は「生物」と呼ばれているものにはある共通点が存在するためである。この共通点とはもちろん「生きていること」である。
したがって、「生物」なるものを言語学的に定義すると「『生きる』という動詞の主語になりうるもの」となる。ここで注目すべきことは、「生きる」という語が定義されてはじめて「生物」なる語が定義できるということである。言いかえると、生物界において「主役」を演じているのはもちろん「生物」ではなく「生命」である。
このように、言語の最大の役目がわれわれの身のまわりで起こっているあらゆる現象を表現することである以上、文において「現象」およびそれを表している「動詞」が「主役」となるのはごく当然のことなのである。