「漢字」が「表意文字」たる証・・・「訓読み」
みなさんも御存知のとおり、漢字の「訓読み」とは漢字の意味と同じ意味を持つ語をその漢字の読みとした読み方のことである。このことからもわかるとおり、「訓読み」なる読み方はその文字が「表意文字」(漢字のようにその字自体が固有の意味を持っている文字を総称して「表意文字」と呼ぶ)でなければ絶対に存在しえない読み方なのである。
したがって、「訓読み」については実際に用いられている訓読み(漢字の日本語についての訓読み)以外にも存在するはずである。すなわち、
@ 複数の文字に対する「訓読み」(ただし、文字が複数個集まってはじめてその文字群の読みとなる場合のみを考える)
A 日本語以外の言語についての「訓読み」
B 漢字以外の表意文字に対する「訓読み」
が考えれるはずである。
そのうち、@については漢熟語の「訓読み」として実際にそのような読み方が認められている。この例をあげると、「大人」に対する「おとな」、「一日」に対する「ついたち」、「二十歳」に対する「はたち」などがそれに相当し、これらはいずれも複数の漢字が集まってはじめて「訓読み」が成立している。たとえば、「ついたち」のもとの形は「つきたち」であり、さらにこの語源は「月」+「立つ」(月が見えはじめるという意味、なお昔の日本は太陰暦(新月のときを月の初めとする暦)を用いていたことに注意せよ。)である。したがって、「ついたち」は「一日」なる熟語の「訓読み」であると考えれるのである。なお、このような漢熟語に対する「訓読み」は一般に「熟字訓」と呼ばれている。
また、Aについては「煙草」に対する「タバコ」、「麦酒」に対する「ビール」などがそれらの例である。つまり、「タバコ」は「tabacco」(ポルトガル語)であり、また「ビール」は「bier」(オランダ語)である。以前はこのように日本でも中国語以外の外来語の表記に漢字を用いていたが、最近はこうした外来語の表記には専らカタカナが用いられ、したがって漢字は用いられなくなってきている。しかし、漢字の本場である中国では現在でも(あたりまえではあるが)外来語の表記には漢字が用いられている。つまり、この方法とはその外来語に意味の似た漢字を当てはめるやり方である(ただし、中国では日本における漢語のように漢字を組みあわせるだけでその漢字を「訓読み」することまでは行っていない。)。
「表意文字」…それ自体が「言葉」である
また、あたりまえであるが漢字が表意文字であるということはすなわちその意味を持つ語が存在するわけであり、したがって漢字とその漢字の意味を持っている語を結びつけて考えることができるはずである。したがって、漢字の意味をその読みとする読み方が存在し、みなさんもご存知のとおり漢字のこの読み方が「訓読み」と呼ばれているのである。したがって、文字が「訓読み」なる読み方を持つことはその文字が表意文字であることの必要条件であり、かつ充分条件でもあるのである。
ところで、漢字が意味を持っているということはつまり漢字自体が一種の「言語」であると考えることができるのである。したがって、「訓読み」とはすなわち漢字を他の言語に翻訳したものなのである。
また、このように表意文字が一種の「言語」であるということは大変重要なことなのである。なぜなら、この事実は音声によって伝達するものが唯一の「言語」ではないことを意味するからである。
このことを具体的に言うと、他の人に情報を伝える手段として既に話し言葉よりも先にあるものが存在していたのである。この「あるもの」がいわゆる「ボディー・ランゲージ」である。この「ボディー・ランゲージ」とは身振りや表情などで情報を伝える方法のことである。この方法の利点は、誰にでも簡単に覚えれるということである。つまり、ボディー・ランゲージはそれ自体が意味を持っているので話し言葉や書き言葉のように音声や文字の組み合わせを意味に変換したり、あるいはその逆過程をしなくてもそれが理解できるのである。
したがって、ボディー・ランゲージには話し言葉や書き言葉にあるような「言葉の壁」(同種の言語を修得した者同士以外では言葉が通じないこと)が原則として存在しないのである。つまり、言うまでもなくわれわれが言葉を用いる目的は他の者に意味を伝えることであり、「ボディー・ランゲージ」はいわば直接意味を伝える方法なのでそれが何を指しているのか簡単にわかるのである。
そして、漢字は字の形がきわめて重要であるという点ではこのボディー・ランゲージに大変よく似ているのである。なぜなら、漢字の意味はその構成と密接に関係しており、したがって漢字を他の者に伝えるには原則としてその漢字を書いて見せるという方法しかないのである。
このように、視覚によって(他の者にそれを見せるという方法を用いて)他の者に伝える言語を「ビジュアル・ランゲージ」(または「ビデオ・ランゲージ」)と呼ぶのである。なお、それに対して話し言葉(われわれが通常用いている言語)は「オ−ディオ・ランゲージ」と呼ぶ。そして、この「ビジュアル・ランゲージ」の最大の特徴は直接意味を表すことである。つまり、通常の言語はまず音声の組み合わせが単語を表し、その単語の組み合わせが意味を表す、というふうに間接的に音声が意味を表しているのに対し、漢字やボディー・ランゲージではそれらが言葉を介せず直接意味を表しているのである。
なお、「ボディー・ランゲージ」の「ボディ」とは「身体」なる意味であるが、この「ボディ」は同時に「物理的」という意味をも持っているのである。つまり、ボディー・ランゲージはいわばアナログな方法で意味を伝える方法であるが、この「アナログ」なる語は「物理的」なる意味の語である。つまり、ボディー・ランゲージとは物理的なやり方で意味を伝える方法なのであるが、この物理的な方法が実に煩しく、そのために次第にこのボディー・ランゲージが使われなくなって変わりにオ−ディオ・ランゲージが使われるようになったのである。
しかし、やはり直接意味を表すというこのボディー・ランゲージの持っている利点は捨て難いものである。以上の理由から、中国ではボディー・ランゲージのこの利点を受け継いだ文字、すなわち漢字が発明され、それが中国や日本などで用いられているのである。
ところで、漢字が日本語や中国語(2章で述べるとおり、日本語と中国語は文法や音韻の構造などがまるで異なる、まったく別の言語である。)の表記に用いれるのならば英語やドイツ語などその他の言語の表記に用いれるはずである。しかし、漢字を発明した中国人はそれを全世界に広めようとしなかったのである。また、ご存知のとおり漢字には「訓読み」以外に「音読み」なる表意文字には存在しえないはずの読みが存在しているのである。そして、さらに悪いことには同音の漢字が無数に存在し、そのために音読みだけでは漢字を識別することが困難となっており、さらにはこの音読み自体が一つの漢字に幾つも存在し、そのうえ中国と日本ではこの音読みが異なっているのである。
このことに関しては、表意文字としての漢字の利点を全世界の人々にアピールできなかった中国人および中国から漢字を取り入れるときに中国での漢字の読み方まで取り入れ、さらにはそれを仮名表記までしてしまった日本人の過ちと考えるにほかないのである。つまり、言葉や文字はいずれも自然発生的にできたものである以上間違った使い方は避けれないものであり、その意味では漢字に「音読み」のような邪魔なものができたことは仕方のないことである。しかし、われわれに英知があればこのような誤った使い方は避けれるはずであり、またわれわれは文字を正しく使うように努力せねばならぬのである。
「かたどり文字」⇒単語、「くみたて文字」⇒熟語
ところで、みなさんもご存知のとおり漢字の成り立ちは大きく分けて「象形文字」、「指事文字」および「会意文字」の3種類に分けられる。このうち「象形文字」とは「木」、「人」、「山」のように目に見えるものの形をかたどった文字のことであり、漢字の中でも最も基本的な文字となっている。また、「指事文字」とは「一」、「二」、(両方とも線の数が意味を表す)「上」(「├」の部分がが上にある→上)のように数などの抽象的な概念を図示した文字文字のことである。なお、「象形文字」と「指事文字」を総称して「かたどり文字」または「一次文字」と呼ぶ。
一方、「会意文字」とは「岩」(山にある石→岩)「林」(木がたくさんある→林)「森」(木が林よりももっとたくさんある→森)などのように既存の象形文字や指事文字を組み合わせてそれらの意味を合成した意味を持たせた文字のことであり、この「会意文字」は「くみたて文字」または「二次文字」とも呼ばれている。
なお、漢字にはその他に「形声文字」(そのある部分がその音読みを表している漢字)も存在しているが、この「形声文字」は同時に「会意文字」をも兼ねているものがほとんどである。したがって、当然ながらこの「会意文字」は全世界に存在している漢字のほとんどを占めているのである。
また、この「かたどり文字」と「くみたて文字」の違いはそれらの起源のみではないのである。つまり、まさにこれらの起源と密接に関係することであるが、「くみたて文字」はさらに「かたどり文字」へと分解できるが、一方「かたどり文字」はもうそれ以上分解できないのである。言いかえると、「かたどり文字」は「単語」に相当し、一方「くみたて文字」は「熟語」に相当しているのである。
さらに、先述のとおりほとんどの漢字はいわゆる「くみたて文字」なのであるが、この「漢字」なる字はそれが「かたどり文字」でも「くみたて文字」でも単独で用いられることはほとんどなく、大半は複数の漢字を組み合わせて「漢熟語」として用いられている。(もっとも、これは日本においてのみの話であって、やはり漢字の本家である中国では漢字は単独で用いられることが多い。)
つまり、大半の漢字(「会意文字」のこと)はすでにそれ自体が一種の「熟語」なのであるが、これらの漢字は複数個組み合わせられてさらに複雑な熟語をつくっているのである。言いかえると、漢字はまずその字の中で「会意文字」なる名の熟語をつくり、さらにその字の外でも「漢熟語」なる名の熟語をつくる、というふうに漢字は字の内側、外側、あわせて2段階で熟語をつくる能力を持っているのである。
以上のことから、漢字がそれ自体「言語」であることはもはや疑う余地のない事実である。そして、このように漢字が一種の「言葉」であることを証明しているのが他ならぬ「訓読み」の存在であり、この事実は同時に表意文字がそれ自体「言語」の一種であることをも証明しているのである。