2005年6月26日(日)。
Salyu
@HMV阿部野橋店


「唄声が生き物みたいに広がってく。」
HMV阿倍野でSalyuのインストアライブ。インストアというで、ギター1本と唄というアコースティックな編成だった。ちなみにギタリストは、いつもSalyuのライブでドラムを叩いているあらきゆうこさんの夫である清水弘貴さん。清水さんは数年前にソロで音源をリリースしていて、よく聴いていたので、得した気分だった。

ライブ本番前に軽くリハーサルがあって。歌詞をはっきりと発音せず、半分ハミングのように唄ったのだけど、
「唄っていう生き物が生まれてってる!」
こんな感触は久しぶりだったかもしれない。いや、生き物のような唄を聴いた体験は何度があったことがあった記憶があるのだけど、Salyuのそれは、また違った息を帯びたもので。
「何て、自由に広がっていくんだろ。」
スケールの大きな、でもそっと寄り添ってもくれるような感じ。だから、まだリハなのに、ドキドキしっぱなしだった。まだリハなので、曲の一部分を少ししか唄わないのに、ぐいっと安心させられて、じわじわ唄という生き物が体の中に入ってくるみたいだった。
「やべー!また泣きそうになっちゃうかも。」

この人の唄は何ていうんだろう?
声に何かが宿っているような、ふんわりと包み込まれ、その中に浸ってしまう感触。一見、俗世とはかけ離れているような感触。でも、Salyuの唄は何処か不器用で、もがいているような感情の揺れがすっと押し寄せて来る。だから、神秘的だったり深遠な空気の曲を歌っても、完全に浮世離れした感じにはならない。むしろ、今ココにある生活を強く再確認させられるような、さりげなくちっちゃくて何でもないんだけど、確固たる大切な感触がする。
「何度も泣きそうにヒリヒリする。」
のはきっとそのせいで、ヒリヒリを弛緩させるような暖かさがあるのもきっとそのせいな気がする。ゆえに、Salyuの唄にはSalyuのものでしかない身近に根を張っている個がある。歌詞というある種の制約を受けていない装飾がなされていない状態に近い唄声は、その感触がより自由に動き回っていて。どんどん生き物が溢れていってるようだった。

本編。
インストアなので5曲と短かったが、やっぱりよかった。ただ、リハでとても自由な瞬間を味わった後だったからか、「Peaty」「Dramatic Irony」「彗星」といった、Salyuの曲の中ではアップテンポなものは、歌詞にプラスしてある程度タイトなリズムという制限がかかっていて、やや不自由そうにも聴こえた。
けど、「Dialogue」の歌詞という制約を受けても、それを軽く乗り越えていく大きな唄の力は、凄かった。曲の後の拍手が圧倒的に大きかったのも、納得。
「また生き物が生まれてる!」
そして、中盤のめちゃくちゃキーが高くなる箇所では、グッと来た。1度ライブで観てるので、ある程度予想しているはずなのに、そんなもんはボロボロ崩れてった。何かをたくさん感じているのに、何も感じていない風にも思え、頭の中が真っ白になっていく。この感触はホントに何なのだろ?
「絶対、何回体験しても分からねーんだろーね。」
確かに残るものは、
「唄声って、人の声の可能性って凄まじいな。」
「人の声っていいな。」
ということだけなんだ。

MCは相変わらず慣れてないみたいで、オドオドしまくりだったけど。話し方も佇まいも、何処にでもいそうな女の子なのだけど。唄い出すと、もう完全に別世界に連れて行かれてしまう。もちろん、ココにある生活を踏まえた、ココにある生活を噛み締めた別世界。今日のライブの中で、一番しっとりと染みこんで来た「VALON-1」で、祈るように唄という生き物を発信してた直後に
「皆さん、今日という日をいい日にしてくださいねー。」
と、Salyuは笑ってた。
音源で聴いて素晴らしい歌い手というのはたくさんいて、それを忠実に再現してくれる素晴らしい歌い手もたくさんいる。Salyuはそのどっちでもあって、どっちでもない。生で観た方が、何倍も素晴らしい。音源とは形が外れていたとしても、ずーっと上回るものを聴かせてくれる。
「唄って生き物なんだ。よ。」
ってさ。