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空港使用料等もろもろ含めて、釜山往復7210円也。東京への新幹線片道より安い。
旅行はリックに限る。しかも10kg以内の機内持ち込み荷物だけにしたので、5人とも着替えは最小限。毎日同じ服を着ていても、気の置けない仲間だから気にならない。
関空第二ターミナルへは、空港内をバスに乗って10分移動。まだ使用している航空会社はピーチだけで、第一ターミナルのような喧騒はない。
機内の一切のサービスは有料。飛行機を移動手段と割り切ればこれで十分。
1時間半のフライトを終えて、金海国際空港に着いた。
朝鮮半島と日本が近いことを実感させてくれる時間だった。
空港で両替。40000円が398000ウオン。
韓国通に言わせれば、かなりウオン高になったらしい。
釜山行きのバスに乗り、慶州へ北上すること1時間半。
のどかな田園地帯とおぼしきや、高層アパート群に目を見張る。
ムーミン谷の「ニョロニョロ」みたいに、同じ形の細長い3,40階建てのアパート群がにょきにょきと並んでいた。
チェルシーホテルは、駅からも遺跡からも近い便利なところにある。
フロントは鉄道の改札口のような小窓で薄暗かったけれど、部屋は清潔で床暖房が心地いい。
3連泊の朝食は特別サービスでパンを用意してもらうことに、ちゃっかり交渉成立した。
夕食を食べにでようと、玄関に出たら私たちの朝食の食パンを買いに行っていた主人に出くわし、車で送ってくれた。いい人だ。
韓国料理といえば焼肉。肉が食べられない私は、韓国料理は苦手。
そんな私に韓国通の二人は、「韓国料理は肉だけじゃないよ」と力説するが、まだちょっと抵抗がある。
今日は典型的な韓国家庭料理の店だそうだ。
一人前の皿数は優に20は超える。和え物、汁物、漬物、いわゆる韓国のお袋の味といったところ。白いテーブルクロスの上は赤い彩りの料理で満開だ。
だが見かけの赤色ほど辛くなくて、心配するには及ばず、箸が進み大方平らげた。
お代わり自由だそうだが、皿数がこれだけあったら、一口ずつ食べても満腹になる。
まずは韓国料理入門編 無事クリア。
その夜は オンドルの部屋で快適に眠りについた。

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慶州駅からバスに乗り、新羅時代の寺、仏国寺に向かう。
駅までのメイン道路の歩道は露天の店で大賑わい。中でも目立つのはやはり鈴なりに束ねたにんにく。
新鮮な野菜や、見慣れない魚を覗き込みながら、人ごみを掻き分けて行く。
腰の曲がったおばさんや、威勢のいい母ちゃんはいるけれど父ちゃんの姿は殆ど見ない。
どこの国の市場でも、大概おばちゃんが元気だ。いったい父ちゃんは、何をしてる?
そういえば慶州駅前の広場で、賭け事してるおじちゃんが4,5人いた。

仏国寺は、晩秋の日差しに紅葉が映えていた。
門で日本語で「ガイドしましょう」と青年が声をかけてきた。日本に来たこともあるようで流暢に説明してくれた。
仏国寺は理想的な仏の世界を表現しているそうで、眼前の石段がこの世とあの世の境界を現しているそうだ。
当時のものは石段を残すだけだが、現在は建物も修復されてほぼ往時と同じ規模。
中庭に入ると多宝塔が建っていて、新羅は精巧な石の文化でもあったのだ。
先週までは紅葉の見ごろと重なって、大変な人ごみだったようだが、今は観光客のピークは過ぎ、しかも紅葉はまだまだきれい。
「いい時に来ましたね」とはまんざらリップサービスとは思えない。
新羅は儒教も大事にしたが、対外的には仏教国家を標榜していた。
当時は仏教国家が先進国家の証しだった。

その後、青年に叔母さんの店である水晶店に案内された。
女主人はお茶を勧めながら、ケースから紫水晶をあれこれ取り出すが、装飾品には縁のない私たちは、どれを勧められても「ウーーん」とうなるばかり。
「でも 皆さん指輪くらいなさるでしょ?」といわれて、並んだ50本の指には、ものの見事にひとつの指輪もついていなかった。
店主もあきらめて、石窟庵までのタクシーを呼んでくれた。
タクシーの中で噂した。
「(甥は)今頃 叔母さんから叱られてるよね。お前はまだ人を見る目ができてないってね」
山道をタクシーと徒歩で4、50分。山の東側の斜面に石窟庵はある。
石で作ったドームの中に本尊が鎮座している。花崗岩とは思えないやわらかくやさしい面差しだ。
ドームの中にすっぽり包まれて仏の足元にぬかずきたいと思わせるような空間だったが、ガラス越しにのぞくしかできない。
751年に造られたというが、古代の遺跡を見るといつも思う。人間の技術や知恵は進歩したのだろうかと。
街に帰って、慶州博物館に行った。ここは今回の旅行での私にとって目玉の一つ。
迷ってしまうくらい広い。考古館だけで時間切れになってしまったが、韓国通の彼女たちが韓国には何度来ても新しい発見があるというのも、もっともだ。
金冠塚からでたという金冠は、「金の国・新羅」を象徴するような、見事な細工。
1921年 裏庭を掘っていた主が、きらりと光るものに気がついて、世紀の大発見となったのだという。細かい細工の金の板が、トナカイの角のように伸び、勾玉がゆらゆらさがっていて、いままでどこの国でも見たことがない独特の王冠だった。
耳飾の多様さや細工の細かさは日本では見たことがない。
藤の木古墳からたくさんの金の馬具や飾り履が出土したが、関連が彷彿とした。
最後のコーナーに日本の正倉院文書に書かれた、新羅の戸籍があった。
なぜ新羅の戸籍が正倉院にあったのだろう?
新羅で戸籍を書いた紙が、なんらかのルートで日本の中務省あたりに古紙として入り、戸籍の裏を再利用して正倉院に残ったと私は推理した。
この紙がどんなルートで日本に入ったのか想像力をかき立てる。新羅の交易品を包んで渡ったのかななどと・・・
博物館を出る頃は、一番星が輝いていた。
新羅の宮殿があった半月城が、街の明かりに囲まれて、緑に鎮まっている。
新羅千年の歴史の中で、ずっと首都はここから動かなかった。
一番星と月あかりの下、街灯をすかして見た城跡のもみじの大木は忘れられない光景だった。
薄明かりのなかを半月城を東西に横断して、今夜の夕食は瑶石宮(ヨソックン)という店。
かって両班が暮らしていた家屋は、趣があり築200年。調度品も洗練されている。
運ばれてくるのは韓定食と呼ばれる見た目も鮮やかな小皿の数々。
ここでも主流は野菜の保存食系。
20種以上の食材を10時間以上煮詰めた一皿、いわしと干し大根を5時間煮詰めた一皿、ビーフジャーキーや、いろんな野菜のキムチなど、発酵させたり熟成させたりするのが韓国の家庭料理なのかなと思った。
韓国の家庭食は、大量の漬物や保存食を日ごとに組み合わせを変えてだすのだ、とのレクチャーを受けて、なるほどと思った。
韓国家庭料理に、今日も満腹だ。
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食パンにジャム、コーヒーで朝食を済ませて、南山ハイキングへ。
南山は新羅時代の慶州を守る聖域。新羅の始祖が生まれた場所とされている。
谷や尾根に仏教文化の遺跡が点在する。
西から登って標高494Mのピークから東の統一殿に下る半日コース。
庭園で曲水の宴をしたと言われる「鮑石亭」は、朝が早くて、開いていなかった。

登り口すぐの所に円墳三陵がある。
松林、雑木林、適度な階段と心地よい山道を歩く。冷気が心地いい。
頂上に着くと、かなりの人数の団体が到着していた。

「日本人?」 と歓迎されて(?)生栗をご馳走になった。
日本語勉強中という男性に下山のルートの確認をしたら、この人が無類の親切な人で、懇切丁寧に、分かれ道まで付いてきてくれた。
韓国最大の製鉄会社「ポスコ」の社員グループのひとりだった。
個人旅行をしていると、こういう交流があるから「やめられない」とは、先達のコメント。
途中の張り出した尾根の上に、三層石塔が下界を見下ろすように建っていた。
下山口近くの民家の庭に、大根や白菜がたくさん干してある。
冬に備えてのキムチつくりの準備だろうか。

下山口の統一殿から南山を振り返る。
市内に戻ったらちょうど昼時。豆腐専門店で豆腐チゲを食べた。ピリ辛だけどほぼ完食。
胃弱・腸弱のはずなのに、自分でもいぶかしい。
旅の終わりに下痢なんてごめんだ、とやや自重するが、案外韓国料理は胃にやさしいのかもしれない。
バスの発車時刻まであと5分といわれて、食後の全力疾走。
無事世界遺産の「良洞(ヤンドン)村」に到着した。
2010年に世界遺産に登録されて、一気に観光施設の整備が進み、りっぱなビジターセンターでは子供が学べるような施設やガイドが整っていた。
そこで日本語のガイドをうけて、500年ほど前から上流層の両班が代々住んでいたことを知る。二つの家系が競い合いながら、優秀な官吏を中央に送った。現在も子孫が住み続けている。

見上げると、屋根の棟が両端でそりあがっている。
これが「鴟尾(しび)」の原型と言われる反りだった。大極殿の立派な鴟尾も原型はこれなんだ、とひとり悦にいっていた。
ある民家の庭先に作業している主婦がいた。軒には味噌玉が干してあり、縁側に切干大根がたくさん広げて干してある。
「日本の白川郷に行ったことがある」働き者の主婦は言った。古い家に住みながら伝統を守り、ともに世界遺産になっている村だから、交流があるのだろう。

それぞれの家に風情があり、時代劇をみるような趣があったが、なんと言っても主婦との会話が楽しかった。あの切り干し大根を買って帰ったらさぞおいしかっただろうな。
ここで、南山で道案内してくれた男性と再会。
彼は下山して、車を回して村まで迎えに来てくれたのだ。おかげでバスに乗らずに、まっすぐ市内へ戻り、彼お勧めの「韓国料理バイキング」の店に行く。
自重なんて吹っ飛んだ。3往復してキムチ・にんにく味を堪能。
ここで彼・朴さんが自己紹介。息子が大学卒業に撮った家族写真をみせてくれた。
日本語勉強中という彼とは、あえて日本語で話をした。
初対面でもこんなに親身になってくれるとは、人見知りする私には驚きだった。
一人6000ウオンの夕食を、彼にご馳走してもらって「カムサハムニダ」
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芬皇寺・皇龍寺・雁鴨池・贍星台(チョムソンデ)・天馬塚→海東龍宮寺→海雲台 |
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8時ホテル出発。唐辛子パワーに胃をやられたSさんはホテル待機。
芬皇寺は634年に建てられた古刹だそうだが、秀吉によって大半が破壊され、石塔だけが残る。四隅を守る狛犬がかわいい。
傍らの梵鐘の天女がなまめかしかった。

門を出ると、広大な草地が広がり、ここが当時東洋最大規模だった皇龍寺址だ。
善徳女王の時代は護国仏教の中核として、国の精神的支えであった。
今は基壇と礎石が残るだけだが、心地いい空間だった。
時間があれば基壇の上に寝転んで、浮かんだ雲を眺めていたい。冷気が気持いい。

野原を横切ると、雁鴨池に至る。歩いていけるこの距離感がいい。
バスツアーで目的地に降ろされるお手軽旅行がもてはやされるが、歩けてよかった。

雁鴨池は統一新羅時代東宮付属の離宮として建てられた。曲線の水際は一目で池の全貌が見渡せないように工夫されている。中核の建物から、池の中の島が景色になる。
1975年から発掘がされ、池の全貌が分かりたくさんの遺物がでた。
平城宮跡資料館に展示されているものとほぼ同型の鬼瓦が展示されていた。深いつながりがあったのだろう。
平城宮の東院庭園は、小石を敷き詰めた浅い池だが雁鴨池は深さがあり、舟を浮かべて優雅に遊んだとされている。
庭園の文化にも、それぞれの民族の感性があり、様式は国ごとに微妙に違う。
街の中心部には大規模な古墳群がある。それぞれの円墳はきれいに刈り込まれ、そのうちのひとつ「天馬塚」の内部が公開されている。
黄金の王冠・冠飾・イヤリングが墓室のガラスケースの中に展示されていたが、これほどの財宝が盗掘されずに残ったことも奇跡だ。儒教の国だからだろうか。
慶州に3日半。
新羅の歴史を堪能して、慶州駅からリゾート地海雲台へ向かう。
車中の昼食は市場で仕入れた 韓国風海苔巻きと餅菓子。
龍宮寺は、「今日は特別にご利益がある日なの?」と聞きたくなるくらい、大変な人出。
早々にタクシーで今夜の宿の海雲台のペンションに投宿した。
目の前は大海原。はるか先に対馬がかすみ、弓なりのビーチリゾートが眼の下だ。
しかも11階の角部屋は、海に向かってガラス張り。
シーズンオフだからこんな立地のいい部屋が格安で取れたのだろう。
歩いて5分の裏通りは市場。食材調達にいたって便利。
夕食はタクシーで海岸沿いの店で「チョゲグイ」。
魚介類の網焼きだ。これまた「ごちそう様でした。満腹です」
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日本の方角から朝日が昇る。
夕べは低気圧が荒れて、強い風が吹いていた。この低気圧が今日は日本列島を荒らすと、BSのNHKニュースが伝えている。
朝食は「もやし雑炊」。主菜に必ず数品のサイドメニューがつく韓定食にも、すっかり馴れた。熱々の雑炊をフーフーしながら食べていると、出勤途中のおじさんが、親しげに日本語で声をかけてくる。
上のほうでは国どうしでギクシャクすることはあっても、人同士はとっても親切だ。
高層ビルの間を抜けて、半島にある冬栢(トンベク)公園を歩く。
海沿いの遊歩道を行くと、韓国で開かれたAPEC(2005年)の会場があった。
お歴々の使ったトイレを使いたいと、用をたすが狭くて普通。

ここでカメラがバッテリー切れ。
バスで国際市場へ行った。韓国の若い女性がきれいだ。よく整形美人の話を聞くが、肌がきれい。韓国コスメが人気なのも分かる気がした。
市場はどこの国でも活気がある。食べ物のにおい、行き交う荷車、売り声に韓国演歌。
庶民の活気が満ちている。
市場のB級グルメで昼食をとり、それぞれ土産品の物色。
大型銭湯に行ってサウナで暖まり、ふぐ雑炊で韓国最後の夜を打ち上げた。 |
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ペンションは 高層ビルの10階・11階を占めている、部屋数10室ほど。
家族経営らしく、主人が朝ごはんに牡蠣雑炊を差し入れてくれた。
おなべを空にして、返しにいったら鍋のふたを取って「あら!」とびっくりしていた。
盛んな食欲に驚いたのだろうか。
午後の便なので、午前中目の前の「アクアリウム」に入る。
昼は市場で焼きたての「焼き魚定食」
こんなにたくさんの魚食べられないよ、と内心思っていたが全部たいらげた。
13時 荷物をまとめ空港行きのバスにのる。
非日常から日常に戻る時、軽いウツになる。
関空に着いたら軽い頭痛がした。
これ以上望めないくらい楽しい旅だったので、
今後これ以上の旅はできないだろうと思ったら、余計にさびしくなった。
みんな 本当にありがとう。
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