5.古神道に見る大和心


日本は、モンスーン地帯に属し高温多湿のために豊かな自然に恵まれた、米作に適した瑞穂の国である。歴史上これまで外国の侵略もほとんど受けず、大量の移民もなく、島国日本は長期にわたって日本独自の文化を築き上げてきた。(2.日本の歴史と風土)

 

(3.外国人が見た明治初期の日本庶民)では、明治初期に日本を訪れた外国人が見たり感じたりした日本の庶民生活を紹介した。そこには質素ではあるが幸せで満足して生活している日本の庶民があり、思いやりのある、礼儀正しい、和を大切にする人々、自己を主張するのではなく共同・協調で生きる人々、創意工夫に優れた勤勉な人々が描き出されていた。

 

(4.縄文時代の我々の祖先の生き方)では、こうした日本人の心の源泉を探るべく、縄文時代の我々の祖先の生活に思いをめぐらした。日本が縄文時代のころ、世界の各地では農耕文化が進み富と権力が集中して争いの時代に入っていた。日本列島ではその間、人は心豊かなムラ生活を営み、平和な社会が続き、「日本のあけぼの」と呼べるような文化を、3500年間ほどにわたって築き上げていた。

 

弥生時代から現代に至る2500年よりもはるかに長い間、縄文時代の平和なムラ生活は続けられ、日本人の心「大和心」が育まれていったのである。平和で豊かな生活を通じて、ムラという共存共栄社会が根付き、和の心が育まれ、智恵を働かしていろいろなものを作り生活を改善していった。

 

こうして独特の文明・文化を築き上げた縄文時代の我々の祖先は、紀元前300年ころに大陸から入ってきた当時としては高度な技術に仕上がっていた水田稲作(システム)を、短期間のうちに自分たちのものにし、本州の北端部まで進出させた。

 

私は日本の歴史を考えるとき、縄文時代に特に注目する。氷河期が終わって海水が上昇し大陸との地続きが絶たれ、いわゆる鎖国時代に入った日本列島は、弥生時代までの1万数千年の間、外国文化の影響をほとんど受けずに、日本独自の道を歩んだ。そしてその縄文時代の後半3500年間は、世界でもまれな狩猟採集での定住生活を行う中で、日本人独自の心が、生き方が、価値観が育まれ、独特の文化を築き上げた。これらは、その後の日本民族の精神生活の基盤というべきものになっている。

 

3.で情報収集した日本の考古学は、遺跡や遺物というもの≠ノよる実証主義を採ってきたため、その背後にある人間について語ることをあまりしていない。そこで私は、我々の祖先の精神生活を推し図るにあたり、考古学とは別の観点から調べるべく、日本の神道について、それも縄文時代や弥生時代にもさかのぼる古神道について調べてみることにした。自然を敬う心から発した古神道は、「神随(かんなが)ら」の道と言われ、古代の人たちにとっては宗教というより生活そのものであった。「神道」という意識、また形がはっきりしてきたのは、仏教流入以後のことである。

 

森羅万象への限りなき畏敬とカミ

台風や雷雨、地震や旱魃などの自然活動をコントロールすることなど、所詮人間にはできない。我々現代人は、幸い科学文明の恩恵を受けて、台風や地震などの自然現象についてある程度知っている。しかし地球が太陽の周りを回っている球形の物質であることなど思いもよらなかったであろう我々の古代人にとって、太陽が朝に出て夕に沈んでいくこと、春夏秋冬の四季が毎年巡って来ること、あるいは時々猛烈に吹く風、地も裂けんばかりの大地震、そうした自然現象は、全く不思議なもので人智の及ばない畏れ多い、大いなる存在だったことであろう。

 

古代の人たちは、自然の中で目に見えるものに対し、目に見えないもので強大な宇宙エネルギーのことを、大和言葉でカ≠ニ称し、満ちていることをミ≠ニ言った。だから「カミ」は目に見えないもので強大な宇宙エネルギーが満ち満ちているもの、という意味に使われていた。そして自然の織り成す森羅万象が「カミ」によるものととらえ、豊穣をもたらしてくれた「カミ」をもてなし、称えた。また荒ぶる「カミ」を恐れ、鎮めた。
人は常に「カミ」とともにあった、すなわち、生活そのものが「神随(かんなが)ら」あるいは「(かん)(ながら)」の道であった。日本の固有な信仰である神道は、こうした世界から生まれてきた。
 

「カミ」とともにあるから、それを「カンナガラ(惟神)」といい、神の命を分け与えられて生きているから、人は「カミの子」、生命(いのち)は神の「ワケミタマ(分霊)」と考えられた。
人は、彼らの暮らす土地の神「ウブスナガミ(産土神)」のお陰を蒙って誕生し、産土神や、その他もろもろの神々と正しく付き合っていくことで四季の恵みを享受し、そして最後には、産土神に導かれて祖霊の世界に帰っていった。

 

和の心で生きる

わが国には、春夏秋冬のめぐりがとても鮮やかで、そこには美しい自然の営みがある。春の先駆けとして梅の花が一輪、二輪と咲きだす。梅が終わるころには陽気な日が多くなり植物や動物が一斉に動き出す。そして桜が咲くことで人の心は一挙に陽気になる。・・・こうした大自然のドラマが毎年繰り返される。すばらしい自然は一方、突然のように地震、水害、旱魃などの被害をもたらす。我々の祖先は、そのような大自然を、畏敬の念を持つと同時にあるがままのものとして素直に受け入れていた。自然との共生、あるいは自然との和、これが我々祖先の心・生き方の基本であった。

 

キリスト教とか仏教とかは、自然環境や社会秩序の厳しいところから生まれている。どうしても人間の力で自然でも秩序でも作り変えていかねば生きていけない。だから自分の力で何とかしようとする。正義を作り、そのためには争いもする。これに対し、我々の祖先は、自然に恵まれているから、自分で何かする、周りを変えていくというのではなく、自然に生かされている、あるがままに生きる、足るを知るという生き方であった。

 

日本人の最大の特徴である和の精神あるいは和の心は、このような自然とともに歩む中から育まれたものであり、日本人独自の心情である思いやり、感謝の心、あるいは感性豊かな心が古代人の心に染み付き、後世へと継がれていく。

 

祖先に護られて生きる

縄文時代は、種々の遺跡や遺物からもいえるように、亡くなった祖先はいずれまた生まれてくるという再生の観念が一般的であった。亡くなってある時期を過ぎると祖霊になり、またある時期を過ぎるとこの世に生まれてくる、これが再生の考えであった。だから古代の人たちは、自分たちの祖先を非常に大切にし、また祖先に護られて生きた。祖先は自分たちの知識の宝庫であり、心の支えであった。だから死ぬと、その亡骸は一番重要な場所に葬ったし、祖霊は家の奥に祀った。

 

民俗学者である柳田國男は、日本各地の言い伝えを調べ、日本人の死後の概念、すなわち、死者の霊は永久にこの国土にとどまり、我々の身近にいて護ってくれるものだという考えが、太古から今日まで持ち続けられていることを知り、この点は、「いずれの外来宗教の教理とも、明白に食い違った重要な点」であることを指摘し、「祖先教」とさえ呼んでいる。

 

 神道はつながりの宗教といわれる。あの世とこの世の命は続いている。だから祖先を一生懸命に供養する、そうすれば祖先もあの世で立派に生きてくれ、また我々に命を伝えてくれる。祖先や神様を祀り、いつも感謝して生活する。祖先から見放された人は生きていけない。そうした神を敬い祖先を崇めるというのが古代人の心であった。

 

天と地を繋ぐ柱を築く

人間が住むこの地と神の住む天をどうしたら繋ぐことができるか。壮大な宇宙意識を持っていた古代人にとってそれは大変重要なことだった。
そこでこの地球という大地と天を繋げる表現としてヒモロギを立てた。一万数千年前の縄文時代の人たちは山に大きな岩の柱を築いた。ある地域を聖域として、磐境(いわさか)を定め、そこに岩をずっと積み重ねて、磐座(いわくら)を築き、その中心にヒモロギとなる大きな岩を据える。その聖なる場所を磐座(いわくら)、その中心を神籬(ひもろぎ)といい、神を天上の世界からお迎えする。古代人の宇宙観が地上に表現された施設だ。
こうした磐座(いわくら)は現在でも、富士山をはじめ全国多くの山で見られる。例えば山梨県の金峰山の山頂にある五丈岩。五丈というと約16.5メートルの高さになるが、こうした五丈もある大岩をわざわざ山頂まで運び上げて、岩組して神様を迎える神籬を建てたことになる。
こうして古代の我々の祖先は、神と繋ぐことに大きなエネルギーを注いだ。

 

浄い心――罪・(けが)れ と禊祓い(みそぎはらい)――  

神道では「人は神の子」、すなわち人間の生命は神から授かったものであり、本性・本質は神と同じものだという考えが根本的にある。 多くの場合、鏡の表面を覆う曇りのように、誘惑に負け安易な道に走りがちな心の弱さが、人間の神聖な本質の輝きを妨げている。禊や祓いは、こうした心の弱さ・醜さを除去して、あるべき本質に立ち帰るための心身の浄めである。

 

穢れ(けがれ)とは「気枯れ」のことで、汚いという意味ではなく、神様からいただいたエネルギー「気」を枯らしてしまうことを言い、「気が枯れる」と人間が病気になったり不調になったりするとされていた。古代人は(けが)れに対して極度に敏感で、身も心も清めること(禊祓い(みそぎはらい))を非常に重視した。禊をしてこの自分の魂の穢れを祓うと元気が戻ってくる。人間が心から罪(罪は、「つみ」=「包(む)身」 神様のお姿を身を包んで隠してしまうことをいう)とか汚れを祓いさって、本来持って生まれた本性、本質的なものに立ち還れば神になる。これを大和言葉で「カムカエル」つまり「カム」に「カエル」ことになる。

 

知恵を働かして術を磨く

縄文時代の我々の祖先は、資源についての豊富な知識を持ち、生活をより良く改善するための技術を磨いた。
たとえば、衣服。 骨製の縫い針や縄文時代最古例の編布片、平織り布などが見つかったことにより、縄文人の衣類に、布製があったことがわかってきた。利用された植物素材はアサやカラムシであった。縄文人は櫛やピンなどを頭に挿し、腕輪や耳飾をつけていた。布は沢山の編み物が出土していて、さまざまな編み方が既にあったことが明らかになっている。

 

食では 世界に先駆けて作った縄文土器は食の手段として画期的なものになった。土器の観察から、基本的な調理の仕方は「煮る」であったことが確認されている。一度に沢山取れるサバ、ブリ、サケ、そしてクリは保存食として加工された可能性がある。

 

食事の道具としては、「煮て」調理された食事は、土器からオタマや柄杓のようなもので小型の土器や木器に盛りつけられ、それをスプーンで口に運んでいた。
縄文時代の装身具は、腕輪、足輪、耳飾り、首飾り、ペンダント、腰飾りなどまことに豊富である。素材は、ヒスイ、琥珀、石、角牙、歯、土器、ウルシ、かずらなど。他にも櫛、かんざし、ヘアピン(彫刻つき、朱が塗られた)。おしゃれに気を遣っていた。

 

以上の例のように縄文時代の我々の祖先は、大いに知恵を働かせて現代人の我々も感心するような生活用品、装飾品、建築・土木技術を開発しているが、こうした智恵を働かせて術を磨く能力を先天的に持ち合わせていたものと思われる。

 

仕事の基本は「共同・協調作業」

縄文遺跡には規模の大きい遺構が多く発見されているが、縄文人が大規模な土木工事と建物を計画的に施工する能力を持っていたことが裏付けられる。ムラを作り維持するには、原始林の伐採、ドングリやクリなどの食料となる木の植樹、そして各自の家の建築、中央の祭壇や集会所建設など多くの仕事がある。また彼らの主食であるドングリやサケは、大量に取れるが収穫期間がごく短い。人を総動員して2,3週間の間に集めてしまう必要がある。こうした作業は、ムラ総出で、あるいは近辺のムラの応援を得て「共同・協調作業」で成し遂げられた。

 

日本列島において、縄文時代に出来たこの「共同・協調作業」のやり方は、その後の日本人の作業の元になっている。例えば、何千年にわたって大陸で出来上がった高度な技術を要する水田稲作システム、これはムラ総出で行うものであるが、弥生時代に日本に移入されてからは、縄文時代に築き上げた「共同・協調作業」のやり方のもとに、非常に短期間で本州の北端部まで進出している。

 

共同・協調作業をうまくやっていくには、各メンバーが利己的でないことが必要だ。皆が我を主張していては共同作業は続かないし、できあがる物の品質は悪くなる。現代的に言えば各自が「個」を出さずに「公」のために働くことが共同作業を円滑に行うための条件である。

 

ここに、古代の我々の祖先はすばらしい心や考え方を持っていた。
人は「()」で行動することは神から離れることだと考えた。神道では我欲を嫌い、我欲が出ると心が曇り神から離れてしまうと考える。古代の人々は我を引っ込めて公のために尽くすという心・魂を持っていた。

 

明るく生きる

天の岩戸開きのところで、アメノウズメノカミが楽しげに舞を舞うと、周りにおられた八百万の神様が笑い転げて、それで岩戸が開けたという神話のように、古神道は明るく朗らかな笑いというものを大切にする。家庭に笑いの絶えないような、明るい生き方だ。

 

我々は、明るく生きるためには、常に明るい気持ちを持ち続けていることが必要である。古代の我々の祖先は明るい気持ちを持つ条件をそろえていた。生まれながらに「和」の心を持っているから、人や周囲を思いやり、いつも感謝し、病気や災害にあっても、あるがままのこととしてとらえるからくよくよせず、足るを知るから余分な欲を持ったり不満を抱くことも少ない。
また「我」を引っ込めて公のために役に立とうとするから損得の意識は少ないし、したがって不満でストレスがたまることもない。常に智を働かせて生活や社会を前進させる術を磨こうとするから退屈せず、皆の役に立ち、やり甲斐があり、面白くて生き生きする。

 

すばらしい自然の美しさや変化のすばらしさに感動を覚える。そして何よりもカミや祖先とともに生きるので、精神的にも非常に楽な、ストレスなどおよそ関係のない楽しい生き方になる。というのが私の、古代の我々の祖先の明るく生きる姿の想像である。

 

我々日本人は本来、このように極めて楽観的な人間にできているのである。家庭も地域も学校や職場も、そして日本全体が明るいはずなのだ。その二.で紹介した明治初期の、外国人が見た日本庶民の姿、例えば英国人ディクソンの
「・・・つまり上機嫌な様子が行き渡っているのだ。群衆の間でこれほど目に付くことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。・・・頭を丸めた老婆からキャッキャッと笑っている赤子に至るまで、彼ら群集はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中に悲哀など存在しないかに思われてくる」
のように日本人の本来の姿は、質素な生活の中でも明るいのだ。

 

 

日本の古神道のその後

古神道は、これまで述べてきたように、日本の国土に生まれ育った自然発生的な清らかな信仰である、というより生活そのものであった。そして古代の我々の祖先は、和を優先した、あるがままの、足るを知った生き方をし、人のため公のために働き、いつも智恵を絞って生活を改善し、自然が織りなす光景に感動し、そして祖先に護られて生きる、そうした心で明るい人生を送っていた。私なりに、この心を大和心と呼ぶ。

 

こうした大和心を日本人は、祖先以来、伝統的信念、生活信条として信奉し、信仰、思想の源流としてきた。いうなれば、大和心は日本民族の精神生活の基盤というべきものである。

 

古神道が「神道」という意識、またかたちがはっきりしてきたのは、仏教流入以後のことである。このとき初めて宗教として自覚した。

 

 神道はその後、聖武天皇が、自らを「三法の奴」と名乗り、各地に国分寺を建てて仏教の国教化政策を一挙に推進したり、江戸時代の徳川政権が仏教を国教化するなど、神道への圧力があったが、結局は神道も神社もいっこうにおとろえなかった。

 

 神道が大きな打撃を受けたのは明治以降である。神道が国教化されたのは良いとしても、政治が神道を利用するために、それまでの神道の本質や因習・伝統を見事に壊した。

 

庶民に親しまれて信仰されていた、多くの名もなき神々を祀ったムラの神社(多くは産土神(氏神とも呼んだ)を祀る神社)は破壊するか、ご神体だけを国家認定の神社に移し、境内の片隅に形式的に祀るかたちで統合されてしまった。 その結果、無数の(やしろ)や鎮守の森が消滅してしまった。

 

産土神あるいは氏神を失った人々は先祖代代守ってきた精神的よりどころを失ってしまった。この時点で人心はかなり荒廃したと考えられる。つまり、その二.で紹介したあの明治初期の日本人のすばらしい心は大きなダメージを受けた。

 

今こそ大和心が必要な時だ

今日本は、過去に例のない諸問題に直面しその対策を明示できないまま政治を始め政府、学校、家庭などさまざまな世界で混乱している。そして、一般庶民は、国際化(グローバリゼーション)の波のもと、金銭至上主義や個人中心主義など価値観や生き方の強烈な刺激を受け、またテレビやインターネットの媒体を通じうまい汁を見せられて、自分だけではどうにもできない精神的混乱を抱え込んで悩んでいる。

 

今こそ我々現代に生きる日本人は、日本民族の精神生活の基盤である大和心を見直し、我々の心に呼び戻すべきときであると思う。

 

西行法師「なにごとにおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」
 菅原道真「心だに まことの道にたがいなば 祈らずとても 神や守らん」