4.縄文時代の我々の祖先の生き方
3.では、明治初期に日本を訪れた外国人が、見たり感じたりした日本の庶民生活を紹介した。そこには質素ではあるが幸せで満足して生活している日本の庶民があり、思いやりのある、礼儀正しい、和を大切にする人々、自己を主張するのではなく共同・協調で生きる人々、創意工夫に優れた勤勉な人々が描き出されていた。この時代は惟神会流にいえばまだまだ「四魂具足」の社会であった。
今回は、明治初期の日本庶民のこうした心がいつごろ生まれたのかを探ってみたい。
結論を先に言えば、こうした明治初期の日本人庶民像の原型は、縄文時代の我々の祖先の人たちに求めることができる、そのように思う背景を以下記してみたい。
1994年に大々的に報道された青森県の「三内丸山遺跡」は、多くの人の縄文時代のイメージを変えた。縄文人に対するそれまでのイメージは、ザンバラ髪、のびほうだいの髭、方肌ぬぎに毛皮を引っ掛けこん棒を持ってはだしで歩いている、そして腹が減ったら近くのものを手当たり次第に食べる、そんな原始人だった。
縄文文化は「日本文化のあけぼの」
ところが、次々発掘される遺跡から、縄文文化は、「原始的」とはいえない高度に発達した日本列島独自の文化であり、いわば「日本文化のあけぼの」と言えるものであることがわかってきた。
我々の母、祖母、曾祖母・・・とたどっていくと、一代を一般に考えられている30年として、100代前の祖先は縄文時代の生まれである。今から2500年前は縄文時代であった。私のテーマ「大和心」を追求していくと、実はこの縄文時代にたどり着く。
縄文時代はいつごろから始まったか。一般的には土器の出現からとされている。日本最古の土器は、長崎県泉福寺洞穴遺跡から出土した逗留文(とうりゅうもん)土器で、約1万年前に作られたと見られている。高さ24センチの胴のふくらんだ煮炊き用の筒である。この頃の地球は、氷河期が終わりを迎え、現在より冷涼とはいえ気温の上昇が始まっていた。
1万年前頃から始まった縄文時代は、6000年前頃になると人々の生活は、それまでの遊動生活から定住生活に換わり、そこにはムラができ、ムラ同士もお互いに助け合いながら2500年前頃までの長い期間(約7500年間)続き、大陸から入ってきた稲作農業と金属器の弥生時代へ引き継いでいく。
その縄文時代について、最近多く出版されている古代史書物をもとに簡単に整理してみた。上図「縄文時代」を見ながら読んでいただきたい。ただし、古代史においては、年代をはじめ種々の記述に、学者によってかなりの差がある。本稿は学術書ではないので、そのあたりは最大公約数的なものを選んで記した。
縄文時代の前(旧石器時代)
縄文時代の前は旧石器時代と呼ばれるいわゆる氷河期である。氷河期においては海水が氷になり、海面が下がり陸地は広くなる。例えば約2万年前の旧石器時代では、年平均気温が今より10度ほど低く、日本列島の周囲では、海面が100メートル以上も下がっていたと推測されている。だとすると、現在大陸と日本列島を切り離している海峡のある部分は干しあがっていた。黄海や東シナ海の一部も陸になり、日本はアジア大陸の陸続きで大陸の一部となっていた。
このような時、動物も人間も、アジア大陸から日本に歩いてくることは、それほど困難ではなかった。だから日本列島には、ずいぶん古い時代から人間が住んでいた。考古学者たちは、1万年以上前の旧石器時代の遺跡を、既に3000カ所以上発見しており、中には3万年以上前と思われる遺跡もある。後期旧石器時代(約3万年前〜1万年前)に日本列島に住んでいた人々は、現代日本人の祖先であるとされている。またその分布も、北海道から沖縄にいたる日本全土に広がっている。
縄文時代の到来
1万2千年前頃から気候が暖かくなったために海面が上昇し、日本列島は大陸から切り離され、このときから日本列島はほぼ「鎖国状態」になった。海上を大陸へ渡るということは、例えばずっと後の平安時代の遣唐使の場合、12回中5回しか成功していないが、それほどの難事業で、命がけの仕事であった。ましてや舟も航海術もまだレベルの極めて低い縄文人にとっては、陸路が断たれたということは完全な孤立を意味した。しかし、孤立したがゆえに日本列島の中で独自の縄文文化が生まれ育まれていくことになる。
発掘資料によれば6千年前頃を境に縄文社会は急激な変貌を見せる。それまでの遊動生活から定住生活になっていったのだ。定住生活をした実例はそれ以前の人類の歴史にはないそうだ。縄文時代の我々の祖先は、動物界にも例のない、狩猟採集での定住生活という異端の生活様式を選び取ったことになる。
定住生活のはじまり
定住生活を選んだ背景には、日本列島の国土が中緯度湿潤地域であり温帯森林という恵まれた自然環境がある。温暖化に伴って日本列島に拡大していった温帯森林では、ドングリやシイ、クリなどたっぷりと澱粉が詰まった実が多く採れた。氷河期が後退し、それまでの大型獣の狩猟に依存する生活が維持できなくなったとき我々の祖先は、自分たちの主食としてこうした澱粉質の多い木の実に目をつけた。しかしこの種の食料は加熱しなければ消化できないし、またおいしくもない。ここで祖先は煮炊きのできる土器を作った。
いわゆる縄文土器である。世界最古の土器はそれまでケニアの約8000年前のものとされてきたが、日本列島で1万年以上前に作り出されたこの土器は、世界に先駆けて我々の祖先自らが作ったのである。
温帯の森には多くの木の実がなるが、それを採集できるのは、秋の短い季節に限られる。そこで祖先は、ムラの中に大きな貯蔵穴を作って、秋に採集した大量の木の実を貯蔵するようになった。
三内丸山古墳の焼け跡の炭や泥炭層から出土した加工木材などからクリのDNA分析を行ったところ、クリが栽培されていたことがわかった。ムラの周囲は大きなクリ林だった。すなわち人々は周囲の原始林をクリ林に換え、食糧だけでなく建築材、道具の素材、燃料として利用していたと見られ、クリは予想以上の大きな役割を果たしていたのである。
衣食住
木の実の貯蔵と煮炊きが可能になった我々の祖先は、狩りの比重を減らし植物性食料への依存を高めた。祖先の主食は木の実、とくにドングリであった。またヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、マメ類なども栽培され、ヤマブドウやニワトコなど漿果類、タデ、ミズ、タラの芽などの山菜も潤沢に取れていた。
一方、蛋白源としては、シカやイノシシなどの獣類ではなく、魚を中心とした水産資源を蛋白食の中心においた。遺跡から調べたところでは、サケやマスをはじめ小さな巻貝やフグまで、今日我々が食べる魚介類のほとんどを当時食べていたことになる。そのための漁撈技術も、釣り針やモリ、ヤス、ヤナ、錘、タモ網などの漁具をはじめいろいろの漁法をあみ出している。
また生活用品も、種々の土器をはじめ住居、舟、漆塗りの櫛、盆、編み物、木製品などを独自に作り出し、技術レベルは予想以上に高かった。着るものも季節に応じた服が織られ、多種の飾り物とともに結構おしゃれなものになっていた。
我々の祖先は創意工夫の能力に長けていた。生活していく上で必要なものは自分たちで開発した。そしてそれらを広域のムラ同士で交換し合った。
縄文時代の食卓の中心は鍋料理であったと思われる。ドングリをつぶしてアクを抜き、団子のようにして汁の中に入れる。そしてそこに山菜や魚、時には動物の肉もほおり込む。今でも日本の各地に、とくに縄文文化が栄えた地域に残るさまざまな鍋料理は、この縄文の食事の名残であると言われている。
住居は地面を60センチとか2メートルとか掘り下げて床を作ったいわゆる小型竪穴住居で、大きさは直径3m、床面積10平方メートルほどで、ちょうど6畳一間くらいの広さのものが多かった。中央には必ず炉が、奥には多くの場合祭壇があり、この家に4〜5人の家族が生活していた。竪穴住居というのは外の温度に比べて冬なら暖かく、夏ならひんやりする。
簡素だが豊かでのんびり生活
ある考古学者の試算によれば、縄文時代の祖先の生活は、平年であれば、そんなに働かなくても衣食住は十分足りていた。自然任せも豊かでのんびり生活を送っていた。
ムラを中心とした定住生活は、食べ物も豊富で、着るものもおしゃれができ、舟も使って遠くの村までも行き来して仲間が多くできた。時間にも大いに余裕のある、平和で安定した生活になった。先のことも考え、いろいろ工夫し道具を開発し生活を便利にした。
縄文時代が最盛期に達するのは中期(約4000年前)で、このときの日本列島の人口を遺蹟数から推算すると約30万人となる。そのうち最も人口の集中していた関東地方は、1平方キロ当たり3人という狩猟採集経済の段階としては例外的に高い人口密度を持った社会だった。
共同・協調生活
定住生活をするために森を開き裸地を開墾しムラを作った。例えば三内丸山遺跡では、最盛期には500人の人口があったと推定される。竪穴住居群をはじめ、集落の集会所とも言える大型建物跡や高床倉庫跡、整然と並ぶ墓群などが見つかった。正確に4.2mの間隔で並んだ直径1mもある六つの柱穴は、高さ10〜20mもの建物があったことを想像させる縄文都市であったのだ。こうした規模の大きい遺構が他にも発見されているが、縄文人が大規模な土木工事と建物を計画的に施工する能力を持っていたことが裏付けられる。
こうした建設・土木作業は、ムラ総出で、あるいは近辺のムラの応援を得て成し遂げられた。彼らの主食であるドングリやサケは、大量に取れるが、収穫期間がごく短い。人を総動員して2,3週間の間に集めてしまう必要がある。
このようなとき最も効果の上がるのが共同作業である。お互い助け合った。また食料不足のときは必要に応じ分け合った。定住生活の最大の特徴がこの共同作業であり相互扶助である。共同作業には「和」が不可欠だ。お互いを思いやり、感謝しあう、「個」を主張せず「公」のために生きる。こうした共同作業を何千年も続けることにより、我々の祖先は「和」の心を日本人のDNAに叩き込んだことになる。
愛知県伊川津貝塚と青森県是川中居遺跡との2箇所に石鏃に射こまれた骨が見つかっているが、けんか程度のものであろうとされる。気温が高く自然が活気付いていた縄文時代は、食料も豊富で、平和な時代であったのだ。
また縄文人は狩りにおいて負傷した犬を看護したことがわかっている。人間以外のものに対する愛を経験した。犬は人間の親愛にして忠実な伴侶であった。縄文人の人間性の形成を考えるとき、犬との関わりを無視することはできない。
祖先を祀る
考古学者 小林達夫先生が次のように書いておられる。
「遊動生活では、家族皆で力をあわせながら移動はしているが、お年寄りはだんだん遅れがちになり、列から離れざるをえなくなる。最後はついていけなくてそこに一人残って死を待つしかなかった。ところがムラができると、老人が動き回るような生活をしなくてムラの中で留守番をすればよいようになった。老人は天寿を全うすることができ途中で涙ながら落伍していくことはなくなった。
老人こそ経験豊かで、今風の言葉で言えば情報量を十分に蓄えている人だ。ムラの中で天寿を全うしながら、自分のいろいろな経験や情報を、働き盛りの自分の子供夫婦ではなくて一世代とんで孫に伝えていく。ムラができたことは、老人が孫に伝えながら天寿をまっとうできる生活様式を軌道に乗せた記念すべき出来事であるほかに、そのムラはそこに住む人たちの情報センターになっていく。そしていろいろなマツリ、あるいは世界をどう考えるか、どういう信念を持つべきか、どう生きるべきか、そういうところまで老人が体系化して、それを孫に教えていく。これは日本の縄文時代だけの話ではなく、いろいろの民族にも共通する文化伝承方法である。
縄文と言うのは大変な文化力を持っているが、それは定住革命によるムラの生活が軌道に乗って、このようなおじいさん、おばあさんから孫へと言うメカニズム、仕組みが出来上がった結果なのである。」
このように縄文時代においては、おじいさん・おばあさん、そして祖先の役割はきわめて高かった。多くのイエの奥に祖先をお祀りしていたし、死んだときの墓もイエの近くの重要な場所に設けた。
アニミズム(精霊信仰)
古代の多くの民族の宗教として存在したアミニズムの観念は、縄文時代の祖先たちも持っていたようで、実用的でない土偶、土版、岩偶、石棒、石刀などの遺物が多く見つかっている。そしてそれらがマツリの対象として使われた例が多くある。
アニミズムの世界では、人々は霊と物体の二つの世界に親しみ、調和して暮らしている。そんな中で霊と交流し、その力をコントロールする霊能力を持った人(シャーマン)がいる。シャーマンは歌や踊りに合わせてトランス(憑依)の状態に入り、魂の世界と直接交流し、祖先を呼び出したり霊媒となって予言し、病気を治療し、悪をはらう。
縄文時代にもシャーマンが居たらしい。一つの証拠として、仮面が使われたことをあげることができる。いろいろの種類の仮面の遺跡が出てきている。
縄文人は死を単なる生の終わりではなく、再生への通過点として考えていた。だから墓を重視している。村の重要な場所に丁寧に葬られる。死後も続けて祖霊の指導を願い早い再生を願う。それは諸民族の文化の古層に共通した死生観でもある。
ムラの中央には多くの場合、大きな建造物や石を用いた遺構がある。ここはムラの集まりや祭祀に使われていた。ただし祭祀といっても何をお祀りしていたのか。これは学者の間でもほとんど言及されていない。私見だが、ムラの中央には産土神あるいは氏神と呼ばれるカミを祀っていたのではないか。感覚の鋭かった縄文時代の人々は、自分が生まれたときに魂を与え、生きている間守護してもらい、また死ぬと魂を引き取ってくださる氏神の存在を自分で感知していたかもしれないし、シャーマンが霊媒となって聞いたのかもしれない。
弥生時代の到来
定住生活に入った6000年前頃は、氷河期以降上昇してきた気温がピークに達した頃で、動植物が一層の活気を呈していた。気温上昇により海面が現在より数メートル高くなった。この現象は「縄文海進」と名づけられている。そのため東京湾は今より6,70キロも奥の栃木県南部近くまで入り込み、大阪では河内平野のほとんどが水面下だった。
その後気温は徐々に下がり2500年前頃になると寒冷化が進み、食料の生産の場である森林は打撃を受けた。生産力が落ち、人口支持率が低下する。最盛期30万人ほどであった縄文時代の人口は、10万人ほどに減ってしまう。こうしたときに、大陸から水田稲作の技術が入り、急速に日本国内に普及していく。いわゆる弥生時代である。
米は、粒が大きく収穫量は多い、口に入れるまでの加工が容易である、美味である、数年間の貯蔵が可能であるなどの点で、他の穀類よりはるかに勝っていた。水田稲作可能な土地を目指して広がり、寒冷地でも山間部でも稲作が試みられた。
水田は当初から取・排水の設備を持つ本格的なものであって、自然灌漑による原子的な水田ではなかった。川から水を引くための水路を掘り、それに土を盛って畦を設け方形の区画をつくり、一箇所に取水口を設ける。春の耕作には木製の鍬で耕し、鋤やえぶりで田の表面を整えた。秋に穂積具(石製、木製)で稲の穂だけを摘み、高床の倉庫に収納した。臼を堅杵でついて脱穀した。
弥生時代の農耕は、開拓から収蔵・脱穀までの完成した農作業の体系(現代で言うシステム)を持っていた。
水田稲作の受け入れ素地ができていた
このように水田稲作農業は、大陸で数千年もの間改良されただけあってレベルの高い考え方や技術を持っていた。こうした高度の水田稲作を採りいれるために必要な条件、すなわち、計画的な仕事の遂行能力、つねに個人や家族の単位を超えた共同作業ができる資質、協調の精神と勤勉さなどを、我々の祖先は、縄文時代のムラでの共同生活を通じて高いレベルのものを持っていた。
だから水田稲作は、ひとたび日本に移行されると高いレベルで次々と開発され、急速に普及し定着していった。そして稲作本来の安定度と生産力の高さをうまく生かしながら、日本人の主食の座を確立していく。
水田稲作と金属器の技術が日本列島に伝わったのは、今から2500〜2300年前ごろで、世界的に見ると非常に遅い。しかし、スタートの遅れはこうしてたちまち取り返される。北部九州の沿岸部,小河川の下流域に出現した水田稲作は、400年もたたぬうちに本州の北端部まで進出した。
ムラからクニへ
水田稲作をすることによって食料が増え、人口が著しく増加していき、増加した人間がさらに水田の造成を行い、人間の自然への働きかけが次第に強化され拡張されていく。また、収穫された米は貯蔵が可能で、富として蓄積もされる。弥生人は縄文人のように自然が与えてくれるものだけによって生きていくのではなく、自分たち人間が生産した食料によって生きることにおいて、自然世界の中に人間社会を作り始める。水田を造成するためには、多くの人間が必要であり、弥生人は次第により大きな共同体として組織されていく。
はじめ数十人程度だった小規模の縄文時代のムラは、地域によってはやがて何百人の大集落になり、周辺の小規模ムラはこの大集落を中心にまとまって一つの地域社会を形成するようになる。その頃の「魏志倭人伝」に出てくる対馬国、伊都国,奴国(なこく)と呼ばれている「国」はこうした一つの大集落であるとされている。その王の権力の象徴が古墳につながっていくが、こうして弥生時代は古墳時代へと引き継がれていく。
農耕開始から古代王権の成立まで、日本ではその速度は極めて速い。例えば、農耕開始から王墓出現までに要した期間は、西アジアでは5千年、ヨーロッパでは5千年、中国では4千年、エジプトは早くて1千5百年、そして日本は7百年に過ぎない。
最後に
自然に囲まれて心豊かに生きた祖先
私が昔習った“縄文時代”は、まだ原始社会の段階で中国文明や西アジア文明などに比べて非常に遅れたものであった。しかし最近の考古学の進展によりそのイメージは180度変わった。
島国日本列島は遅れていたのではなく、独自のユニークな文化を育てていたのだ。片や農耕文化を進めることにより、富の蓄積、権力の集中を進め、結果的にピラミッドなどの大きな遺構を築くなど確かに大きな“歴史”を残している。
これに対し縄文時代の我々の祖先はこの時期、地味ではあるが平和なムラ生活を送っていた。人間も自然の一部であるという考えで自然に抱かれて生きていた。縄文時代は気温が高く自然が豊かであったため、平時は、食料も豊富で豊かなのんびり生活をしていた。自然災害をはじめもろもろの危害は多々あったがそれを素直に受け止め、ありのままに生きる、足るを知る生き方であった。質素な生活でも、すばらしい自然に囲まれて心豊かに生きていたのであろう。
確固たる「和」の世界を作った祖先
以下私の個人的想像を加えたものである。
我々の祖先は、鎖国状態の日本列島に「和」の世界を築いた。社会の中心に「和」をすえた。「和」を長く保つために、人々はお互いを思いやり、感謝し合あう人間関係を作った。祖先たちの生活態度は、明るく、清廉、素直、かつ正直だったろう。
その社会生活は、競争ではなく共同・協調を基盤としたもので、そこでは「個」よりも「公」の心が優先された。個を主張するのではなく公のため社会のために生きるという人たちだった。
単に生きているというのではなく、生活を改良していった。そのために「創意工夫」能力を高め、技術を高め、道具や装飾品あるいは建造物など独自の優れたものを作り、結果的には文化度の高い社会を築き上げた。
生活には豊かな経験・知識を持つおじいちゃん、おばあちゃん或いは亡くなった祖霊が大きな頼りであった。祖霊を大切にした。というより祖霊の守護のもとに生きた。生活の周りには常に祖霊が居た。
私見だが、村の中央には氏神(産土神)を祀り、我々の祖先は氏神および祖霊を精神的な支えとして生きていた。
3500年間の重み
縄文時代の定住生活3500年という期間は極めて長い。ちなみに縄文時代の終わる紀元前300年から現在2007年までの期間はおよそ2300年なのである。
感覚的に解りやすいようにグラフ「各時代の期間比率」を作ってみた。
縄文時代の前半の遊動生活時代はここに入れていない。日本人が定住生活をはじめてから現在に至るまでの期間で、縄文時代/定住生活の占める期間は60%にもなる。
長く続いた江戸時代の300年間でも、縄文時代/定住生活の3500年間に比べると1/10にもならない。
この3500年間という長さは、後の日本人の心への影響力という観点からすると決定的要素である。このように長期間にわたってできあがった縄文時代の我々の祖先の心は、その後の日本人のDNAの奥にしっかりと記憶されている、日本人の心に叩き込まれている。
明治初期の日本の庶民の心
その二.で紹介した明治初期の日本庶民の心は、実は縄文時代から連綿と引き継がれてきた我々の祖先の心でもあった。縄文時代の3500年間に形成された祖先の心は、その後の外国から導入された文化や技術の大きな影響にもかかわらず、その根幹となるところは揺るがず明治初期まで受け継がれてきたのだと思う。
現代の日本は、諸外国の情報や文化が、テレビをはじめとした情報媒体を通じて庶民へ直接届き、庶民の心に強い刺激を与えている。グローバリゼーションなどと称するアメリカの競争主義や金銭至上主義などの価値感によって振り回されている感がある。
我々は、心の奥底に叩き込まれている祖先の心を、今こそ再認識し大いに活用しなければならない。