私にとっての散歩と自然
私の散歩歴私が散歩が好きなのは小さい頃からである。育った場所が京都の深草というところで、東山三十六峰の麓であるだけに、由緒ある神社やお寺あるいは御陵が多く、散歩には恵まれた環境にあった。
特に近くに七面山があり、その麓の宝塔寺とならんで映画のロケ場所としてもよく使われていたが、このあたりは普段は静寂そのもので、掃き清められた境内にある古池は私の特に好きな場所であった。
松尾芭蕉の俳句 「古池や蛙飛びこむ水の音」 を知ったとき、自分の日ごろの感情をこのようにうまく表現できるものかと、感激したことを覚えている。
四季と不可分の文化
春夏秋冬・・と書いただけで日本人は美しい語句と思う。一年の単位のうちに日本の四季は微妙にきめ細かく移り変わり、古来の農耕から生活サイクルの生まれた日本人の感覚も、季節の推移に応じたきめの細かさを示す。――春風・春雨・花曇り・花吹雪・風薫る・青葉若葉・新緑・夏雲・新涼・野分・秋草・秋冷・秋晴れ・秋日和・小春日和・冬枯れ・・・・以上 日本人らしさの構造 芳賀綏 より一年を四つの季節に分ける意識は、春・夏・秋・冬という漢字の渡来によって一段と深められ確立されたといわれます(岡崎義恵「季節の表現」)
「枕草子」の冒頭に「春は曙・・・夏は夜・・・」、
あるいは漱石の「門」の結び、
細君のお米が、障子のガラスに映るうららかな日影に、「本当に有難いわね。漸くのこと春になって」というと、夫の宗助は「うん、しかし又じき冬になるよ」と縁先で爪を切りながら言います
とあるように、日本人は、挨拶にしろ手紙にしろ小説にしろ、季節のことはいつも話題にする。小学唱歌小学唱歌には日本の自然をうまく表す詩が多く、私は好きだ。菜の花畑に 入日薄れ
見渡す山の端 霞ふかし
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて 匂ひ淡し里わの日影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
蛙のなくねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜この詩は、すべて大和言葉で書かれていて、一層我々の心に通じるのではないでしょうか。万葉集
古今和歌集今の住所に移る前の家は奈良公園が近くだったので、ここが散歩コースだった。
「青丹よし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」
「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」
私はよく京都へぶらりと散策に出かける。中でも上加茂神社もよく行くところである。
「久方の光のどけき春の日にしず心なく花の散るらむ」ここには大和言葉以外一語も使われていない。漢字で書いてあるところも、それは漢字を当てただけであって、皆純粋に大和言葉だ。ということは、この和歌に用いられている言葉は、すべて日本民族が何千年か何万年か前から使い続けてきたものばかりであって、外来語が一語も入っていないということだ。このまったく純粋に日本的な短詩は徹底的に観照的である。つまり心が受身になっていて、「もののあわれ」をよく現していると思う (渡辺昇一先生)