編集後記

2006.10.01

川村喜紀

この「写真と文章で綴る 川村二郎の 人生アルバム」を編集しながらいろいろ感じたことがある。ここではその一つをご紹介したい。
このアルバムは川村二郎を中心に編集しているが、このアルバムの写真で一番年上は二郎のおばあちゃん「きく」さんである。
「きく」さんの生まれは1840年、これはアメリカでリンカーン大統領が就任する19年前、日本の明治維新の28年前である。
現在、この写真には登場していないが、父母には25人の曾孫がいる。 一番小さいのが、喜紀の娘の子、山本健司で2003年生まれ、二郎とは103歳、「きく」さんとは163歳の差がある。子供5人、孫が14人、曾孫が25人、現在二郎・英子の子孫は44人ということになる。
遺伝という観点から見ると、二郎のDNAは、確率的には、子供が1/2、孫が1/4、曾孫が1/8受け継いでいることになる。
ただし遺伝とは面白いもので、精子と卵子が一つの細胞になるときに、それぞれのY,X染色体中のどちらのDNAが優先的に出るかが決まる。
だから、1/8を引き継いでいるといっても、遺伝の過程で、二郎のDNAを優先的に引き継いできていることもあるわけだ。そのときは1/8より大きくなる。
また、染色体の細胞の中にあるDNAの数は数万個もあり、ほとんどは眠った状態にあり、何かのきっかけで目を覚まし活動するものであるから、子孫は二郎の遺伝DNAを引き出すこともできる。
一般に家系図というのは、その家を起こした当主がいて、そこから子、孫、曾孫というように末広がりの形になるのだが、ここでは逆さまの家系図、いわば先祖図を考えてみたい。
今、一番若い曾孫、上述の山本健司を例に考えてみると、親は、山本貴之、育子。祖父母は、山本和雄、千歳、川村喜紀、久子の4人、曽祖父母は、川村二郎・英子を含めて8人、その上の4代目先祖は、川村宗吉・つねを含めて16人、その上の5代目先祖は、川村総二郎・きくを含めて32人となる。

その上の6代目先祖は、川村勝五郎を含めて64人、その上7代目先祖は、川村東左江門を含めて128人となる。この川村東左江門の出生年は分かっていないが、大体一代が30年だから、1780年ころに生まれている。このころはアメリカが誕生した時代だ。
このように先祖を辿っていくと、先祖といってもその数が非常に多いことが分かる。ちなみにこの計算を続けると、健司の21代目の先祖の数は、600年前の西暦1400年、室町時代になるが、200万人。
さらに、27代目の先祖の数となると、800年前の西暦1200年、鎌倉時代になるが、一億人を越える。当時の人口は1000万人もなかっただろうから、この計算の途中で先祖が多々だぶっていることになる。
いわば現在、まったくの他人でも、20代も辿れば先祖はみな同じだということになる。
こうしてみると、少し長い目で見ると、日本人の先祖は皆同じ、「日本人はみな兄弟」ということだ。