編集後記 (Oさんを語る)

平成19年4月22日
川村喜紀 

私がOさんを最初にお見かけしたのはずっと以前、Pホテルにおいてである。そのときOさんに、昔の中国の絵に出てくるような飄飄とした大人(たいじん)の風格を感じ、人生を悟ったような雰囲気、現代風に言えばオーラを醸し出している人、そんな印象を持ったことをよく覚えている。

このたび、Oさんの人生アルバム作成のお手伝いをする機会を得、Oさんがどうしてこのような雰囲気を持つ人間になられたか、そのあたりの背景を考えてみた。
Oさんの人生で先ず特筆すべき出来事は、戦争体験、それも特攻隊員になって戦地に赴き、間もなく特攻隊として出撃することが決まっていた、すなわちまもなく死ぬことがわかっていた、そのような生死のぎりぎりのところまで追い込まれる体験をされたことだ。
一般的に言って、戦争体験と言えば、戦争で肉親をなくしたとか、戦争で家が焼け出されたとか、食べるものもなくてひもじい毎日を送ったとか、戦争の悲惨な体験はいろいろの人がそれなりに話している。

しかしOさんのように、自らが死と隣り合わせに生きた人はなかなか居られない。多くの人が亡くなってしまっていることを考えると、まことに貴重な存在であると言えよう。
Oさんの学生時代の塾は、現代の受験競争に勝つことを目的としたような塾とはまったく異なったもので、お国のためといった感がある。半端な精神ではない、鋼のような筋が通っている。

例えば、Oさんが学校とは別に通っておられた、代々木駅近くの××塾時代では、朝は褌一つで庭に出て身体を清め、手を前に組み、気合を入れて上下に振る「振り魂(ふりたま)」を行っていたが、総武線の電車から乗客が見おろすので、警察から真っ裸にならないよう注意を受けたりした。

愛国のための一途な生活だった。国全体がこうしたムードだったようだ。Oさんが、特攻隊で間もなく死ぬ、という時期になっても心の大きな動揺がなかったのは、こうした訓練のお蔭であったようだ。

 

戦争現地の話には迫力がある。
当時の戦地であるニューギニア、ジャワ、フィリピンなどの南アジアにおいては、日本軍はアメリカの猛攻撃を受け、日に日に劣勢になっていた。

そんなとき自分がいたフィリピン基地では、九九式襲撃機の訓練を終えた「特操隊」見習い士官の大部分が日本へ戻ることになったのに、自分を含めた10名だけがニューギニアで転戦中の独立飛行第73中隊へ配属された。
この10名はその後、飛行便を探しながら転転とする。そしてセレベス島北部のメナドから、南部のリンブン飛行場に着いたとき、漸くニューギニアから転戦してきた本体と合流することができた。

このメナド海軍基地は、自分たちがメナドを出発した翌日に、米軍機により爆撃を受けた。まさに間一髪の出発であった。命拾いをした。
間もなく昭和19年10月20日、本隊は日米決戦の関が原となるレイテ島作戦のため、バコロド島へ行くが、自分ら「特操隊」は、モロタイ島の米軍基地特攻攻撃を予想し留守部隊に残された。

その後ジャワ島へ派遣されたが、戦局急変のため特攻攻撃は中止となった。また自分の命は延びた。
そのままジャワ島海域の対潜哨戒に従事していたが間もなく、レイテより帰還した本隊と合流、ジャワ島中部のクラテン飛行場へ移った。
そこで自分たちは、ジャワ奪還を狙ってインド洋を航行してくる英蘭軍の艦隊を特攻攻撃することになり、連日、夜間訓練を続けていた。
シンガポール、北部スマトラ島の日本軍基地から特攻隊が次々と出撃していることを聞き、わが中隊の守備範囲であるジャワ島から出撃するのは後数日か?という緊迫した情勢になった。
自分の命もいよいよ最後だと覚悟した。
しかしここで終戦となった。もう駄目だと思った自分の命は、また助かった。
ニューギニア島の独立飛行中隊への配属命令を受けたとき、もはや自分が日本へ帰還することは不可能だと思った。
そこで遺品として、抜歯した歯、ジャワ煙草、そして当時の給料を両親へ送った。
後で知ったことだが、お金だけが届いていた。
学校卒業前、既に就職の決まっていた××会社から月々入金されていた給料もすべて、お父上は市役所等へ寄付していた。お父上の当時の心情の一面を覗かせる。
絶対に負けることはないと教え込まれていた日本が、現実、負けてしまったことは、実際現地へ行っておられた方方にとっては、信じられないことだったと思われる。

後述<参考資料>にある戦友◇◇さんの手記にあるように「落ち着くまでが大変だった。隊員は絶望と不安とで殺気立ち、一時は蜂の巣を突っついた状態だった」のであろう。
 
こうした戦争との関わり、これが強いて言えばOさんの人生前半であると言えるのではなかろうか。期間は短いが、強烈な体験が圧縮された人生であるといえよう。

 

Oさんはそんな時、帰国途上で人生の師と言える人と出会い、途方にくれていた心が癒されたことはアルバムや「真の親孝行」にあるとおりだ。こうした出会いを機会に、戦後の新たな人生を歩まれることになる。
戦後のOさんの人生で特筆すべきことは、氏神様・祖霊様を奉斎されたことだ。そして、人生の苦楽を通じて、氏神様・祖霊様のお守りを実感しながら徐々に信仰心を向上され、心豊かな生活を送られるようになった。
特にOさんの場合、病気との闘いを通じて信仰心を向上され、人格を高めていかれたようだ。

 

信仰というのは、目には見えない世界だ。氏神様・祖霊様の存在を信じよ、と言われても簡単に信じられるものではない。四魂具足に則った毎日の生活を通じて氏神様・祖霊様のお守りを感じあるいは体感し、徐々に自信と確信を得ていくものなのであろう。
自分の人生は氏神様・祖霊様とともにあると心から思った人は、心が安定し、心豊かになり、自信と勇気を持つことになる。そして、ある程度の年配になると、悟りの境地になり、その人なりの雰囲気(オーラ)を醸し出すようになるのであろう。
Oさんにこうした雰囲気を感じる。

 

人は誰でも幸せになりたいと願う。人間は「どうすれば幸せになれるか」を追求している動物だともいえる。
現代は物質的には非常に豊かになった。非常に便利な世の中になった。しかし、現代のように便利な生活環境ができたのは、やっと50年ほど前からだ。

神武天皇の時代から数えても、日本の歴史2660年中、わずか50年にしかすぎない、わずか2%にすぎない。だから我々現代人が、当たり前と思っている今の便利な文明社会は、日本人の歴史から見ると、まだほんのわずかでしかない。

人間自身はさほど変わっていないのに、人間を取り巻く環境が急激に変わってしまった。
それに、アメリカナイズなどと称して、個人主義や金銭至上主義などが今日の日本人の心を揺さぶっている。だから今日の日本人の遺伝子はこの急激な環境変化にびっくりしているのであろう、今の日本では、変なことが次々起こっている
しかし遠からず、日本も本当の幸せとは何かを考える風潮が大きくなっていくであろう。敗戦後、豊かさを求めて必死に働き急速な経済発展を果たした日本人は、実際に豊かになった、目標を達成した。

しかし本当に豊かになった実感はなかなかわかないどころか、まだまだ物質的豊かさを求めてあせっている、あくせくしている。

 

Oさんは次のように言われている。「最近の世相の悪化は目を覆うばかりであり、人々は不安な生活を送っています。
私達は人の子として、また親として、日本人の原点に立ち還ってもう一度反省しなければなりません。」
まさしく反省が必要な時期に来ている。あまりに物質的な豊かさを求めたあまり、日本人が先祖から受け継いできている、
日本人の心(大和魂)をおろそかにし、先祖と心が離れてしまっている人が多い。そして外国から来る個人主義や金銭至上主義に振り回されてしまっていることを深く反省する必要がある。

 

豊かな自然の中で長年にわたって育まれてきた情緒豊かな日本文化、稲作を中心にした生活で、和を第一に生きることを信条としてきた日本人、個より公を大事にしてきた日本人、いつも勤勉努力・創意工夫する国民性、そして何より、先祖を大事にし、また先祖に守られながら生きる生き方、このような先祖代々から受け継がれてきた伝統的日本文化に目覚めることが今、必要とされている。

 

このような時、Oさんは早くも心の幸せを勝ち取られている。
Oさんは、「真の親孝行こそ本当の家庭愛、祖国愛、社会愛、人類愛に通ずるものであると思います。
それには先ず、各家庭が魂の授け親である氏神を祀り、氏神のもとに祖先の霊を祀って、崇祖=敬神の日本の(かんな)(がら)の信仰を日常生活に実践することです。」

 

まさにこの言葉に、日本人が向かう方向が示されている。

以上


<参考資料>

 

戦友◇◇氏の「従軍記録誌」より 抜粋

 

・・・・・そのうち、我々にも運命のときがきたようだ。一人ずつ隊長室に呼ばれて、一応家族構成を聞かれ、特攻志願の有無を問う。日ごろから覚悟はしてきたこととは思いながら、一瞬両親の顔が、・・・・・・・・。だが直ぐに「志願します」と応えていた。

当然だが「イヤ」と言える時代ではなかった。将校室へ帰り、遺書を認め、遺品として、爪、髪の毛、それに腕時計をともに袋に入れた。・・・

 

・・・・8月15日午後4時、××航空隊より、彗星11機、沖縄に最後の特攻に飛び立つ。
○○海軍中将が部下22名を連れてのことだった。若い命を無駄にして。自分だけが自決すればそれで済んだものを・・・・。

 

天皇陛下直々の放送で、無条件降伏と知り目の前が真っ暗になった。このあと、落ち着くまでが大変だった。隊員は絶望と不安とで殺気立ち、一時は蜂の巣を突っついた状態だった。

 

ある日、朗報が飛び込んだ。明日乗船する復員部隊があると聞き、何人かで尋ねたら幸いにも同郷の兵隊がいた。早速走り書きの手紙を託した。これで私の無事を知り、喜ぶ両親を思い、一安心した。

 

改札を出るとき駅員から「どちらから復員ですか」「南方からです」「ご苦労様でした」と短い会話で駅舎を出る。駅の横にある昔懐かしい井戸水で喉を潤し顔を洗う。さてこれから2里ばかり、暑い中を歩く。リュックを肩に、・・・・。途中××小学校横の×川で素裸になり煤煙で汚れた全身を洗い、衣服を取り替えてさっぱりした。どうやらこれで父母に見せられる格好になった。
国敗れて山河あり、というが故郷の村は変わっていなかった。見るものすべてが懐かしい昔のままだった。
“何のための戦争だったのか”、むなしい戦いに死んでいった隊員の霊と、復員後亡くなった隊員の霊よ、安かれと祈ってペンを置く。
以上